木を見て森も見る(2)

幼児が成長すれば小学生になる。小学生が成長すれば中学生へ、中学生が成長すれば高校生になる。この当たり前のことが、教育においては当たり前でなくなることがある。

 

 

幼稚園・小学校・中学校・高校・大学は、それぞれが独立した「専門分野」となっている。だが実は、制度そのもの以上に、教育者の視点が専門化・細分化されている。現在自分が受け持っている小学生が、どういった過程を経て大学生になり、社会人となっていくのか。担当する高校生がどのような小学生であったか。その視点を持ちにくい。

 

 

時間の経過にしたがって、生徒は独立した学校という「専門分野」を一通り通過する。教え手は「スペシャリスト」として受け持つ生徒や学生を教えることになるのだが、そこで時は止まっている。生徒や学生にとって、学ぶ場は「連続する長い現在の一部」であるにもかかわらず、教え手の側から「停止した現在」として抜き出される。

 

 

誕生から成人までの20年前後は、成長という「長いひとつの現在」である。それは、教え手が受け持っている「現在」と「過去」と「未来」を足したものだ。そう考えることで、独立している「専門分野」はつながりを持つ。

 

 

「長いひとつの現在」を「森」とするならば、教え手が受け持つ「現在」は「木」と言える。生徒たちの時間を「専門分野」の視点で区切るのではなく、成長という長い時間の一部と見なす時、教育的視点は統合されるだろう。

 

 

教え手が受け持つ「現在」は、教え手にとっては全てかもしれないが、生徒たちにとっては全てではない。にもかかわらず、その「現在」を全てだと生徒たちに思い込ませてしまうところに、今の教育の閉塞感が巣食っている。

 

 

(了)