子どもは部下でも社員でもない

本当に腕のたつ料理人は、素材の良さを最大限に引き出すと言われる。技術もさることながら、素材の質を見切る力に長けている。ある意味、そこまで含めての「技術」とも言える。

 

 

これは何も料理に限ったことではない。対象が存在するものは、常に対象を中心に考えるのが大原則だ。それは「対象への理解」から始まる。

 

 

「対象への理解」を欠いたものは崩壊する。独りよがりの押しつけに終始して、最後は対象のせいにする。料理本の手順通りに進めた料理の出来映えの不味さを、材料のせいにするのと何ら変わらない。

 

 

近年、マネージメントやコーチングの方法論が取り上げられるようになった。これは料理本と同様、料理の初心者や中級者が効率よく手順を通りに進められるようになっている。合理的なマニュアルとしては最適だ。

 

 

しかし、肝心の対象は記号化されたままだ。個性が剥ぎ取られて、あたかも全員が同じような反応をすることが前提とされている。

 

 

「子ども」は子どもという記号ではない。Aという子どもに通用するやり方が、Bという子どもに通用するとは限らない。同じことを教えても、反応はそれぞれ違う。これは感じ方も違うということだ。

 

 

人はずいぶんと「人」を見なくなった。そう感じる。何かの方法論、何かの情報、何かの知識、または自分の思い込み。そういった過剰なほど頭に入っているものを、過剰に見過ぎていると感じる。

 

これは何も子育てに限ったことではない。部下や社員に対してもそうだ。相手を記号化して、何かの方法論を一方的にぶつける。それが珍しくなくなった。近代以降、今ほど教えるスキルが低下した時代はないだろう。マネージメントもコーチングの理論もなかった時代の方が人は育った。

 

 

それらの理論が悪い訳ではない。思考のフレームワークは事態への迅速な対処には不可欠だ。そうではなく、知識や理論への過信に伴い、人間としての力が低下しているのだ。人を教え育てるのは、人間の力に他ならない。

 

 

まして子どもは「子ども」である。大人が大人のために編み出した方法論を「子ども」に押し付ける。「短時間で結果をだせ」という有言なり無言なりのプレッシャーを子どもに与える様子を目にすると、行き着くところまで行き着いてしまったと思わざるを得ない。子どもは部下でも社員でもない。

 

 

今が次の時代の過渡期であることはわかっている。しかし、これだけ大人の力が低下してしまうと、何らかの手を打たなければならないだろう。

 

 

(了)