体罰という「教育の敗北」

大阪市立桜宮高校の体罰問題が波紋を広げている。当該高校のバスケットボール部の主将だった男子生徒が、顧問の男性教諭に体罰を受けた翌日に自ら命を絶った。

 

 

痛ましい事故。そう片付けるには犠牲があまりに大きく、問題は根深い。

 

 

教育熱心という表現で、この重い事態を「痛ましい事故」としてくるむべきではない。体罰はいけない。その「建前」の裏側に根深く息づく「体罰の必要性」という「本音」を問いたださねばならない。

 

 

体罰がいけない理由については、多方面の視点があるだろう。教育コンサルタントの立場で言わせてもらえば、体罰とは「教育スキル」の放棄だ。自分には教育スキルがないという宣言をしているに等しい。

 

 

体罰とは「真摯な言葉」を棄てた行為だ。言葉の選択・言い方の選択・タイミングの選択。そういった「教育スキル」の研鑽を放棄して、子どもに体罰という暴力による抑圧を強いる。

 

 

抑圧は子どもを萎縮させる。萎縮した子どもに待ち受けている未来は、「ひたすら萎縮し続ける」ことだけだ。萎縮した子どもには、自分の世界を広げる力は残されていない。思考が停止したまま、毎日怯え続ける。それは教育ではない。

 

 

体罰を肯定する人間は、体罰を受けて育った人間に多い。その点は同情する。ある時代、体罰を用いる優れた教育者がいたのも事実だろう。だが、それで体罰を肯定するというのなら、何と浅はかな教育観よ。教育者ならば、自分が受けてきた「負の教育」を断ち切らなくてはならない。それを次の世代に引き継いではならない。

 

 

体罰に頼る教え手は、教育者としてニセモノである。本物の教え手は体罰を使わない。そもそも教え子に手をあげようという気持ちすら湧かない。その命令を脳が出さない。

 

 

体罰の本質は、誤った教育観とセルフコントロールできない未熟な精神を持った「教育者」による、「教育」という名の虐待である。言葉による説得を放棄した時点で「教育の敗北」に等しい。

 

 

体罰が責任感の強いひとりの高校生を自殺にまで追い込んだ。それは「教育の敗北」以外の何ものでもない。

 

 

お亡くなりになった生徒のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 

(了)