To the mentors of the future

全世代の「教育力」を高める教育コーチのブログ

ゆとり世代の新入社員を迎えるにあたって(1)

早いもので間もなく年度が変わる。新たに社会人として入社式を迎える人も多いだろう。

 

 

ゆとり教育を受けてきた彼らは、「ゆとり世代」呼ばれている。上司や同僚は、この新卒社会人と机を並べることになる。

 

 

ゆとり世代が社会に出るのは今年が最初ではない。彼らのエピソードはメディアによって取り上げられ、その発言や行動の特異性はことさらに強調されてきた。ネットの世界では、物のわかっていない人を指して「ゆとり」と揶揄する。

 

 

言われたことしかやらない、責任ある仕事を避ける、自分のためになることしかやらない————。

 

 

それがゆとり世代の社員の特徴らしい。しかし、これはどの世代にも見られるものだろう。ある世代が完全で、ある世代が不完全ということあり得ない。未熟な若い世代の未熟さの傾向を、他の世代があげつらう資格はない。むしろ、新入社員を「ゆとり世代」と一括りにして扱う上司がいるとすれば、人を束ねる資質はない。

 

 

相手に対する先入観や思い込みは軋轢しか生まないものだ。少なくとも、人を育てるという点に関しては、スキルは皆無といっていい。

 

 

ゆとり世代はごく普通の若者だ。大人がつくった制度や社会に翻弄され、与えられたツールを存分に活用し、その時々の世相の影響を受けて育ってきたごく普通の若者だ。

 

 

偏差値やテストの得点が高ければ特権的に扱われるという価値観を与えられ、その中で暮らすことを余儀なくされてきたごく普通の若者だ。

 

 

彼らを常識がないと批判する人もいるだろう。しかし、社会の常識を知らないのは若者の常ではないのか。今の上司や先輩にあたる人々も、他人に迷惑をかけ、恥をかきながら「社会の常識」を学んできたはずだ。

 

 

常識とは「ある世界で通用する暗黙のルール」とも言える。初めての土地を訪れて、そこの「常識」に反した行動をすることも十分あり得る。それが無知ということだ。社会やビジネスの世界にいなかった人間が、新しくその世界の「常識」を知ったとしても、それは責められることではない。まして、責めるべきことではない。無知を責めているうちは、人は決して育たない。

 

 

(次号に続く)