To the mentors of the future

全世代の「教育力」を高める教育コーチのブログ

100%を求める人ほど失敗する

例えば、100の力を出さないといけない状況があるとしよう。仕事でも勉強でも構わない。どうすればいいだろう。

 

 

「簡単なことさ。100の力を身につければいいだけだ」

 

 

確かにそれは正論に聞こえるかもしれない。しかし、現実はそれを許さないだろう。なぜなら、100の力を100出せる状況というのは、実際にはほとんど存在しないと言えるからだ。

 

 

100の力を100発揮する。それは、自分の能力をピークに持っていくことを意味する。必要な時に、自分の最高の力を発揮する。それは果たして可能だろうか。

 

 

ピークの力とは、体調や精神状態がベストの時に発揮される。しかし、具合が悪い時や、プレッシャーが掛かるような場面はベストコンディションとは呼べない。実際、そんな状態では、思った力の半分も出せない。

 

 

超一流のピッチャーでさえ、常にピークの力が出せる訳ではない。ほんの僅かのコンディションで出せる力は変わる。

 

 

100の力があることと、100の力を出せることは違う。

 

 

自分は100の力がある。その気になればいつもで出せる。それは「やればできる」と同類の話だ。

 

 

100の力があると思わせる人は、実は200以上の力を秘めていると思った方がいいだろう。氷山の一角と同じで、目に見える部分は小さい。その部分を実際の力として判断すると、人や物事の評価を見誤ることになる。

 

 

100の力を発揮している人を目指して、100の力を身につけることを目標にしても、実際は50程度の力しか獲得できない。日常的に100の力を出すためには、その倍の200くらいの力は必要だ。

 

 

「ベストコンディションならば、100の力を発揮できるのに」

 

 

確かにその「仮定法」は魅力的だ。しかし、受験も仕事も、ベストコンディションで臨める機会はどれだけあるだろう。自分に都合良く状況が動くわけではない。むしろ、自分に不利に状況が作られることの方が、実人生においては自然なことだ。

 

 

とすれば、その「最悪」を基準にして、力を身につける努力をした方が賢明ではないだろうか。仕事ができる、勉強ができると評価されている人は、ベストコンディションが常に自分を取り囲んでいるという幻想は持ち合わせていない。

 

 

思い通りにいかないコンディションを前提に、100の力をパフォーマンスとして発揮するためにはどうすればいいか。結果を出すプロセスとは、体中に張り巡らされた筋力のように、自己の一部として密着している身体性にも似ている。

 

 

頭で情報を処理して立ち回るのではなく、100の状態を身体に覚え込ませた方が早い。身体が若さという甘えに寄りかかれるうちに、試行錯誤という「多少の無茶」をするのも方法だろう。そこで自分の身体性と向き合う。

 

 

常に100を出すためには、自分を知らなければならない。自分を知るということは、自分の身体性を把握することでもある。頭で考えた通りに物事が理路整然と運ばないのは、この身体性があるためだ。

 

 

そう考えると、身体とは制約的で不自由なものかもしれない。しかし、これを味方につけて「自分を知る」ことができると相乗効果を発揮する。

 

 

ある意味、若さとは頭と身体を合致させる期間とも言えるだろう。バランスの良さとは、二者間の整合性がとれた状態を言う。身体を置き去りにして、頭だけで先走ることは、自分自身を置き去りにするのと同じことでもある。

 

 

(了)