グランブルー

人は一生のうちにどれだけの人と向き合うのだろうか。

 

 

出会い関わる人間は数知れずとも、真正面から向き合った人間は多くはないだろう。5人の顔が咄嗟に浮かんだ人は、意識して人と向き合ってきたと断言しても構わない。

 

 

広く浅くつながることができる時代。それは人と向き合わなくても済む時代とも言える。いつでも相手をかわせるように半身で立つことに慣れてしまった。

 

 

向き合うとはコストが掛かる。リスクも負う。損得で経済的に判断しようとすれば見返りは見当たらない。最小限のコストとリスクで最小限の人間関係を維持するSNSやメールやラインが根を生やすのは必然だったのかもしれない。

 

 

親子、教師と生徒、上司と部下、友人、恋人、夫婦。

 

 

この世界は様々な関係性で溢れている。親子や夫婦のように強い結びつきがあれば、上司や部下のように弱い結びつきもある。だが、必ずしもその強弱に応じて相手と向き合っているとは限らない。

 

 

人と向き合わない人間はすぐに分かる。覗くと底が見える。

 

 

数年前、とある番組でフリーダイビングのことを知った。空気タンクなしで潜る深さを競う。中でも100メートル以上の深さまで達した選手は、世界でも僅かに十数人足らずだという。

 

 

海に潜ると水深が深くなるにつれ、太陽の光の量で海の色は変わる。太陽の光が届かなくなる直前、水深80から90メートルを超えるとグランブルーという領域に到達するらしい。

 

 

相手と向き合うことを決意すると、相手を受け入れるか遠ざけるかという選択に迫られる。受け入れるには自分の中に相手をすっぽりと受け入れる深さが必要だ。ある意味この二択は自分と向き合う決断とも言えるだろう。

 

 

人と向き合い続けてきた人間の底は見えない。人と向き合いそれを受け入れてきた深度の分だけ、既成の絵の具では表現できない濃く深いグランブルーを湛えている。本当の意味で強い人間はいないかもしれないが、深い人間はいる。それを「強さ」と呼ぶのは当然かもしれない。

 

 

それが損得のいずれに振り分けられるか、コストやリスクに見合ったものであるかの判断は個々に委ねられる。しかし、自分が見知ったものがこの世界のほんの一部であるという認識は持てるはずだ。

 

 

これほどの物が溢れ、広く浅く繋がれる時代においてなお満たされない心の乾きや焦燥感を癒せるものがあるとしたら、それはグランブルーが広がる景色なのかもしれない。

 

 

少なくとも、そこには人が生まれながらに切望して止まない無数の「答え」がある。

 

 

(了)