仕事がうまくいく最高の考え方

「先生は仕事を楽しんでいますか」

 

 

以前、社会人の教え子からそんなことを尋ねられたことがある。聞けば仕事にやりがいを見出せず、暗中模索の状態だった。

 

 

そもそも仕事にやりがいや楽しさを求めるのが間違っている。そんな社会人の先輩の話に気持ちを揺さぶられ、折り合いがつかなくなっていた。

 

 

私は教えるという仕事をこの上なく楽しんでいる。自分が授業を楽しまなければ、生徒も楽しめない。楽しむとは現在を最大限に肯定する感情であり、未来を示唆するひらめきはそこで生まれる。

 

 

教える側が楽しむことで、教わる側も楽しくなる。楽しさとは心の躍動であり、それは感情を刺激して、日常で凝り固まった視点を解きほぐす。飛び跳ねた心は、現在という地点を小刻みに離れ、時に別の場所や別の時間を垣間みる。

 

 

私は現在、生徒と一対一の授業を行っている。集団授業は他の生徒の力を借りることができるが、一対一ではそれができない。共有する時間の中で相手と対峙するためには、お互いに楽しみ合うことが不可欠だ。一方が他方を萎縮させ、他方が一方から心を背けても、実のない空疎な時間が過ぎていく。

 

 

一個の人間と向き合うことを楽しむ。楽しんで教えることで、生徒も教わることを楽しむ。その姿を見て、教える側もますます楽しくなる。この共鳴は授業後も余韻となって、日々の風景を変えていく。こうして授業という共有された時間は価値を帯びる。

 

 

だから私は教えることが至上の楽しさと言ってはばからない。教える仕事は他の仕事の代替案でもなければ、繋ぎでもない。この仕事に得難い価値を探り当て、一方的な情熱や技術の押しつけを排し、生徒と一緒にひらめきの連鎖を楽しんでいる。

 

 

仮に医師が患者の治療中に「本当は医者の仕事が好きではない」とか「仕方なく医者をやっている」と話したらどうだろう。患者は治療行為そのものを否定された気分に陥り、気持ちが落ち込むにちがいない。その見識も含めて、自身に施されている医療行為そのものの適正を疑うかもしれない。

 

 

医師が献身的に治療に打ち込む姿に、患者は全幅の信頼を寄せる。献身と比肩するだけの価値を探すのは難しい。人の行為が献身に近づけば近づくほど、肯定の密度が高まり、現在に意味が流れ込む。

 

 

仕事を楽しむことを、青臭い考え方とする人々もいる。だが結局、仕事を根気よく突き詰めていくと、最後は誠意や信頼や尊敬のような献身から派生する純度の高い価値があぶり出されることに気づく。

 

 

それを知らない人々にとっては、その香りは青臭く鼻につくのかもしれないが、そこから立ち込める陶然とするかぐわしさに酔いしれるように人は生まれついている。

 

 

(了)