いじめの問題に思う

いじめの問題が後を絶たない。

 

 

子どもの話題ばかりがクローズアップされるが、いじめは社会の至るところにはびこっている。いじめとは品性の欠損であり、それは年齢を選ばない。

 

 

品性というと上品な立ち振る舞いや優雅さを思いつくが、必ずしもそうではない。むしろ、表面だけの品性を取り繕うことは、品のない行為に括られる。

 

 

品性とは心の骨格とも言える。想像力によって張り巡らされた無数の糸。それの先に感性の結晶を装着し、揺れ動く他者の感情を汲み取る。それは共感や共有とも呼ばれるかもしれない。

 

 

品性の優先順位を下げるほど、品位から遠ざかる。効率に躍らされ、損得勘定に走れば走るほど、品性の順位は下がる。これほど品性に欠けた考え方もない。

 

 

学校においても、社会においても、数値化された成績の達成は、免罪符のように品性の欠損を不問する。利益追求というレールの上で、後ろからやって来る見えない巨大列車から逃げるように走る毎日の中で、靴の底のように品性はすり減っていく。

 

 

大人といえども、未完成であることに変わりはない。品性とは完成ではなく、未完成と伴走する人間の条件である。生まれたての乳児であっても衣服を身につけて暮らすように、その年齢に応じた品性という衣服をまとう。

 

 

品性を脱ぎ捨てることは、衣服を脱いで人に接するのと変わらない。衣服をまとうのは、自分のためでもあり、他者のためでもある。品性の欠落は恥であるという感覚が薄れるだけでなく、恥そのものに無痛の人間が増えれば、いじめのような品性のかけらもない行動が横行する。

 

 

品性とは美意識に根を張る。美しいものがわからない人間に、品性は宿らない。美しさとは美しい心に宿る。誠実さや潔さや寛容さといった美しい心に触れ、そこに鍛え上げた想像力の糸を伸ばすことで、逞しい心の骨格である品性が生まれる。

 

 

未完成だが逞しい品性は、譲歩という自己と他者の融和点を見つける。それは孤立を沈め、理解を浮上させる。

 

 

品性のかけらもない出来事に相対するには、きれいごとを肌身離さないことだ。そこに回帰しなければ、やがて品性という言葉は利己的な大地に埋没する。その上では、多くの人々が裸で他人を蹴落としながら躍り続ける。

 

 

他人を思いやるだけで、美しい心がひとつ生まれる。美しい心を嗤う醜い心を消すのに、美しい心がひとつ要る。

 

 

自分の中でもふたつの心がオセロのようにせめぎ合い、葛藤を繰り広げて、最後に多い方が心を代表する。それは思っている以上に危うくて、儚い。

 

 

だからこそ、きれいごとを肌身離さないようにして、その色や形を慈しむ。

 

 

(了)