心の復讐

人は自分の経験に縛られている。気づかないうちに、がんじがらめになっている。

 

 

ある意味、学ぶとは、自分の経験を薄めることと言い換えられるだろう。自分の経験を薄めることによって、普遍性を持たせる。

 

 

とりわけ、自分の成功体験は自分だけでなく、他者も縛りつける。その印象が強すぎて、誰にでも通用すると信じてしまう。その成功の度合いが大きければ大きいほど、自信という名の鎖で自分と他者を縛りつける。

 

 

成功とは条件の一致だ。同じ条件のもとに限って成功は繰り返される。その中で最も成功を左右する条件は、人そのものだ。たとえ全く同じ条件が揃っていたとしても、誰がやるかで結果は全く違うものになる。

 

 

もちろん、最低限の共通条件はある。走らなければ前に進まないように、成功に相応の努力は必要だ。これは「しなかったらマイナスになるもの」に分類される。消極的な条件と呼べるかもしれない。

 

 

一方で、自分特有の成功体験は「したらプラスになるもの」だ。より積極的な方法を探り、それを試したらうまくいった。これは積極的な条件といえるだろう。

 

 

ここで教えるセンスが問われる。

 

 

部下であれ、子どもであれ、生徒であれ、教える立場の人間が教えられる立場の人間に対して根拠にするものは、自身の成功体験だ。むしろ、それでなくてはならない。成功体験に基づかない単なる情報は、身体を通さないために薄くて軽い。

 

 

成功体験は身体を使って手に入れるため、身体に染みついている。それが知識となったのが経験知である。経験を通しているからこそ身体に根づく。ゆえに良くも悪くも力がある。この点が脳に情報として流し込んでいる知識と決定的に異なるのだ。情報を経験知と同程度の知識まで高めるには自分の経験を通すしかない。

 

 

人は教える立場に置かれると、自身の個別的な経験知を普遍化させる。その際、センスのある人は消極的な経験知のみを普遍化して、積極的な経験知は個別的なままでとどめておく。

 

 

積極的な経験知の最たるものは不自然な禁欲だろう。過度にストイックな姿勢は人を選ぶ。自分に合っていたことは間違いないが、不自然である以上、他者に対して当てはめることはできない。

 

 

自分だけの不自然なストイックさを普遍化するのは、自己顕示欲の体現と他者意識の欠如が原因だ。自身の成功体験をひけらかす一方で、自分と他者は異なる存在であるという視点を失っている。

 

 

そもそも、成功体験とは幾つもの条件が運良く重なって手に入るものだ。成功体験は復讐するというが、かつての成功体験に捉われて失敗するという話は珍しくない。

 

 

自分に対してもそうなのだから、他者に対しては尚更だ。自分特有の不自然な方法を結晶化して、部下や生徒や子どもの上に掲げるのは、教えるセンスが欠如していると言わざるを得ない。

 

 

不自然さとはなにか。それは心に反するということだ。遺伝情報と環境と脳の機能が全く同じだとしても、心まで同じと言えるだろうか。

 

 

人それぞれに心があり、その在り方に反したコントロールを加えようとするとき心は抗う。大人しく従っているように見えても、無言で抗っている。

 

 

そこにその人の心があるという事実と心そのものに畏怖することを忘れてはならないだろう。成功体験に復讐されるだけでなく、心に復讐されるからだ。

 

 

(了)