大きな二センチ

勉強のいいところは、レベルアップを実感できる点だ。

 

 

ある単元がわからない。あれこれ勉強して、それができるようになる。これで以前の自分よりも前進したと実感できる。

 

 

勉強は「できない自分」との対面でもある。だから勉強は苦痛に感じる。常に「できない自分」を見せつけられるのは、大人でも辛い。子どもはこの辛さを面倒臭さと表現する。

 

 

この面倒臭さは、少し工夫するだけで、挑戦の高揚感へと変わる。

 

 

これは走り高跳びにも似ているだろう。試技ごとに数センチの上げ幅でバーを調節して跳躍の高さを競う競技だが、これが十センチ単位の上げ幅だったとしたら、この競技は存在していないかもしれない。

 

 

現在の自分の記録よりも一センチや二センチの高さを超えるために、練習を重ねて挑戦する。これが最低十センチでなければならないとしたら、どれだけの人間がこの競技を続けているだろうか。

 

 

二センチを五回クリアすれば十センチになる。十センチを一回でクリアしても十センチになる。計算上は同じだが、その経過と心理はまるでちがう。着実にクリアする「大きな二センチ」は、高揚感を伴って受身の消化作業から挑戦へと昇華する。

 

 

二センチは「今の自分」と「飛べる自分」が重なっている。だからイメージしやすい。イメージできないものほど実現から遠ざかる。「今の自分」と重なる部分のない十センチという目標設定は、実現を諦めるための設定でもある。

 

 

たとえば、子どもに難しい問題集を一冊渡して解くように命じる。これだけで苦手科目は生まれる。新人の部下に道筋の見えない仕事を次々と丸投げする。これで社員の生産性は下がる。

 

 

その場面での「頑張れ」という声掛けは何の役にも立たない。必要なのは十センチを小刻みに分割する二センチの目標設定とその方法なのであって、孤立と威圧ではない。

 

 

その立場に自分が置かれたことを想像すればすぐにわかるのだが、人は上の立場になると途端に想像力を失い、手早く結果だけを求める。十センチ跳べる事実だけを望み、そのプロセスは問わなくなる。それを「そういうものだ」で威圧的に括り、孤立させる。

 

 

中には「自分の二センチ」を見つけるのが上手い人もいる。しかし、こういった人は往々にして幼い頃から二センチの目標設定を学び、成功体験を積み重ねている。

 

 

現代は、昔と異なり、情報が溢れて社会が複雑になった。大きな目標に向かって邁進するというシンプルな情熱だけでは、そこに追いつくのはむずかしい。「今の自分」と重なった「二センチ上の自分」を繰り返して成長するスキルを身につけないと、胸を張れる自分に追いつけない。

 

 

小さい二センチだが、それは大きい。

 

 

その二センチの大きさを実感できた人から順に、然るべき場所にたどり着くことになる。

 

 

(了)