時間のコロケーション

「私は姉をひとり持っています」

 

 

そう言われたら、思わず相手の顔を見てしまうかもしれない。日本人なら「私には姉がいる」というはずで、「姉を持つ」というのは不自然な日本語のつながりだからだ。

 

 

逆の立場でも同じことが言える。日本人が英語で「強い雨」を「strong rain」と言えば、ネイティブスピーカーの相手は違和感を覚えるだろう。英語で雨が強い場合にはheavyを用いるのが一般的で、strongは不自然な表現だ。

 

 

このような言葉同士の自然な結びつきをコロケーション(collocation)と呼ぶ。これを意識することで、英語は飛躍的に向上する。英単語と文法を記憶しても上手な英作文が書けないのは、このコロケーションを無視しているためだ。論理的にはあり得るが不自然な英語になる。

 

 

同じような自然な結びつきは言語以外にも存在する。むしろ自然な結びつきの群れの中で人は毎日を過ごしている。中でも時間と人の結びつきは、人と人の結びつきよりも強い。生きているかぎり、人は時間の流れから離れることはできない。

 

 

時間のコロケーションを意識する。そのことを年齢という区切りで克明に記したのが孔子の「論語為政」である。彼は15歳、30歳、40歳、50歳、60歳、70歳での自分の在り方を、次のように振り返った。

 

 

子曰、「吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而従心所欲、不踰矩。」

 

 

15歳で学問をこころざし(志学)、30歳で自信がついて自立し(而立)、40歳で心に惑いがなくなり(不惑)、50歳で天命を知り(知命)、60歳ではいかなる話が耳に入っても動揺や立腹がなくなり(耳順)、70歳になると自分の行動は道徳から外れなくなった(従心)。

 

 

ある時間、ある時期、ある年齢という時間には「もうひとりの自分」がいる。一方で、現実は時間のコロケーションをなかなか許してはくれない。過去の記憶やこわばった思考にとらわれて、時間を凍った河のように見てしまいがちだ。

 

 

誰でも小さい頃は浅瀬の上流に立っている。何度転んでも、すぐに起き上がることができた。全身をずぶぬれにすることで多くを学んだ。その時はそれが自然なことだった。

 

 

しかし、時間とともに川幅が広がり、水深も深くなる。大きな流れは自分の意志とは無関係に下流へと向かって行く。少しずつ河が変化するように、時間の姿も変わる。一年前の時間と今の時間は、コロケーションを意識しなければ見過ごしてしまうほどの僅差ではあるが、確実に違う。

 

 

「もうひとりの自分」とは、「もうひとつ上の自分」でもある。人は自分が積み重ねてきたものを頼りにしながらも、それに引きずられているため、「もうひとりの自分」との距離を詰めることは難しい。

 

 

しかし、「もうひとつ上の自分」の姿をとらえて背中を追いかけているうちは、時間に溺れることはなくなる。自分の時間に同時に存在する「もうひとつ上の自分」を見つけるきっかけとして、時間のコロケーションという考え方は意味があるかもしれない。

 

 

(了)