聡明な人ほど叱られ方がうまい

上手な叱り方。

 

 

最近、そんなフレーズを目にする機会が増えた。確かに、叱り方ひとつで、人の伸びしろは引き出される。

 

 

自分の正しさを一方的に押し付けたり、感情的に怒鳴るのは「叱る」ことではない。相手の未来を考えて、強く諭すこと。それが「叱る」ことである。

 

 

叱るとはリスクである。叱る相手は嫌われる覚悟をもって諭す。感情の発散が「怒る」であるならば、「叱る」は理性的な理由付けがある。

 

 

しかし、叱り方に劣らず、叱られ方は重要だ。

 

 

「叱られ方」が上手な人間は成長する。なぜ相手が自分を叱ってくれるのか。相手の立場から自分を客観視できるからだ。

 

 

叱る人とは、自分を理解してくれる人、または理解しようとしてくれる人である。

 

 

———今のままではまずい。だから、変わらなくてはならない。なんとか変えてあげよう。たとえ嫌われたとしても、変えたい。そうしなければ、この先、立ち行かなくなることが待ち受けている。

 

 

それが本当の意味で「叱る」ということだ。「叱る」とは相手を理解して、守りたいという所為である。

 

 

もちろん、叱られるのは気分の良いものではない。叱られる側に言い分だってあるだろう。理由があって行動したことに対して叱られたのだから、時にひどく気分を害するかもしれない。だが、そこで自分自身に固執して、自分の言い分を押し通そうとする人間は、自分を理解してくれる人が離れていくことに気付かない。

 

 

相手がなぜ叱るのか。そこに思いを馳せる知性が賢明さである。正誤の問題を人より多く解ける力のことではない。

 

 

ほとんどの人間は発展途上にいる。それは登山をしているようなものだ。今の自分がいる高さから見える景色は、本当の景色の一部に過ぎない。その事実を認識しているかどうか。

 

 

自分よりもっと上から見える景色を教えてくれる人間がいる。もっと広く、もっと遠くを見渡せる人間がいる。その事実を認識しているかどうか。

 

 

自分の小ささを認識するのが謙虚さだとすれば、自分以上の大きさを想像できないのは愚かさであり、自分を理解してくれる存在に気付かないのは惨めさへと通じる。

 

 

理解してくれる人を失うということは、標なくひとりで登山するということだ。それは自由ではなく、孤独という。自分にこだわればこだわるほど、その執着ゆえに、最も大切なものを見失い、その場に立ち尽くす。

 

 

最も大切なものを見失わない力。それもまた賢明さのひとつである。

 

 

(了)