メンターにとって必要不可欠な視点

「どんな人をメンターと呼ぶのですか?」

 

 

そんな質問を受けることがある。

 

 

メンターは先生のようであり、コーチのようであり、よき理解者のようであり、ロールモデルのようでもある。

 

 

メンターは教え、ときには教えない。引き出し、与え、示唆し、鼓舞し、共感し、感化させる。

 

 

メンターは特定または不特定の関わりを通じて、相手の全人格形成に影響を及ぼし、肯定的な未来へといざなう。かつての徒弟制度における「師」と同じ役割を現代のメンターが果たしている。

 

 

かつて日本社会には徒弟制度が広く根付いていた。弟子は師から職業スキルの伝承を媒介として、技術と生き方を学んだ。師から薫陶を受け、尊敬と憧れを知った。それは力強い伝承であり、社会全体に目標と規律と活力を与えた。

 

 

しかし、産業構造の変化とともに徒弟制度は崩れ、師は姿を消した。生き方や職業のロールモデルを失った社会において、若い世代は仕事の意味や生き方そのものを見失う。自分を育ててくれる相手も、親身に相談に乗ってくれる相手もいない。孤立した人材は、力を眠らせたまま時間とともに沈んでいく。

 

 

経済合理性で動く現代の日本の企業が、次々とメンター制度の導入に踏み切ったのは必然だった。しかし、メンターが西洋文化で生まれたからこそ、日本はビジネススキルの一つとして受け入れることができたと言える。そうでなければ、師と同じ役割がこの国で再生のきっかけを果たせたかどうかは危うい。

 

 

企業のメンター制度においては、メンターはメンティと呼ばれる受け手に対して、職業上必要なスキルを対面対話によるコミュニケーションを通じて伝える。メンティに寄り添い、問題を解決していく。その一連の行動をメンタリングと呼ぶ。

 

 

しかし本来、師の存在の必要性は職業に限らない。メンタリングの第一人者であるキャシー・クラムは「人は意義ある他者との関係性をとおして発達し成長していく」と述べているが、人間関係が存在するあまねく場所にメンターは求められている。

 

 

人を繋ぎ、人を育てる最大の価値は身近な尊敬にある。メンターは尊敬の役割を担う存在となる。ITの発達によって人間関係が対面対話のコミュニケーションから遠ざかり、希薄化すればするほど、尊敬は得難い価値を帯びる。

 

 

戦後、日本の集団主義とは真逆の個人主義が西洋からなだれこみ、同時に合理主義と大量消費文化も輸入された。個を確立する風土を知らずに育った日本人は、「聡明であること」を「賢い消費者であること」と誤訳した。

 

 

行動や思考の基準は損得勘定となり、「いかに徳を得るか」よりも「いかに得をするか」に知性が注がれた。その結果、「徳よりも得を優先する」ことで失う「得」を見積もれないという非知性的な知性を追うようになった。

 

 

それを覆す知性的な役割もまた、これからのメンターは担うことになる。

 

 

若い人々にとって最大のリスクは、身近に尊敬できる人間がいないことだ。身近に憧れる人間がいれば、生き方のロールモデルを得ることができる。尊敬で繋がる身近な人間関係を築くためにも、メンターが存在する。

 

 

何も壮大な枠組みを変えることばかりが社会貢献ではない。ミクロはマクロを揺さぶる。身近な下の世代の憧れや尊敬の対象となることは、誰しも可能な社会貢献である。

 

 

メンターの役割を果たせる人間を目指し、下の世代に身近なメンターとしてのロールモデルを伝えることに「証」を見出すのも、知性的な知性だろう。空間も時間も等しく変化の対象となる。メンタリングとは、身近なミクロから未来のマクロな変化を託すことでもある。

 

 

 (了)