「自分を変える?」「自分を変えない?」 正解はどちら?

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よく自分を変えろと言われますよね? 

自分を変えることが成長への大前提となってますよね? 

でも本当にそうなのでしょうか? 

自分を変えずに貫くことが大事だという人もいます。

自分を変える。自分を変えない。どちらが正解なのでしょうか。

 

 

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メンターのような立場にいる人であれば、このような質問を相談者から一度は受けたことがあるかもしれない。

 

 

もちろん、どちらも正解だ。メンター資質を持っている人であれば、問題解決にはバランスが何より大切だと直観的に気づいているだろう。「自分を変える・自分を変えない」問題は、そのバランスと同じ構造と言える。

 

 

上皿天秤はこれをイメージする助けとなるかもしれない。上皿天秤をつり合わせるためには、一方の天秤の重さと同じ重さの分銅を乗せる必要がある。限られた数の重さの異なる分銅を組み合わせ、常に天秤がつり合うように工夫する。

 

 

ところが、解決すべき問題が生じると、一方の天秤の重さは状況によって刻一刻と変動する。そのたびに天秤は右へ左へ傾く。解決力の高い人は、傾き加減から必要な分銅を瞬時に察知して水平な天秤を維持しようとするが、解決力の低い人はどちらか一方の上皿に固執する。

 

 

「自分を変える」のが正解と思っている人は右に全ての分銅を乗せ、「自分を変えない」のが正解と思っている人は左にすべての分銅を乗せる。どちらも天秤として機能していない。眺める角度によっては、壊れた天秤にも見える。

 

 

愛憎のように対立する価値が併存することを心理学ではアンビバレントと呼ぶが、「自分を変えない・自分を変える」問題はまさにアンビバレントそのものだ。選択的問題ではない。

 

 

解決力が低い場合、アンビバレントな問題を選択的問題と錯覚しているところに起因する場合が多い。メンターの立場にある人が、受け手であるメンティに対して、そのような構造について丁寧に説明することは大切だ。

 

 

しかし、メンターにとって問題の構造や仕組みを解説するのはゴールではない。知識の披露は知識のひけらかしに過ぎず、批判や論破の源泉になる。知識自慢に終始して相手の欠点をあげつらい、自分の意見を押し付けて相手を萎縮させた時点で、もはやメンターとは呼べない。

 

 

メンターにとっての知識は、メンティが抱える問題をひもとくための道具であり、メンティの納得を手助けする材料のひとつでしかない。道具の数を増やすのは、相手に誇らしく見せびらかすためなどではない。その道具を用いて解決できる組み合わせを増やすことにある。

 

 

確かに、知識量は知識の少ないメンティにとっては魅力的に映る。その反応がメンター自身に知識の力を錯覚させることもある。

 

 

しかし、それは「検索できる知識」であるという認識が必要だ。「◯◯の本にはこうあった」とか、「△△という人物はこう言っていた」という知識は、あくまで補強証拠である。それ自体に権威を求め、解決する根拠にしようとした時点で、メンター資質を喪失する。

 

 

メンターはメンティが検索できないことに気づきを与え、メンティ固有の問題に対して解決の糸口を与える存在だ。メンティの性格や状況に応じて、知識を選び、カスタマイズして、その使い方を示す。検索できる一般論を前に、有無を言わせず頷かせる役割ではない。

 

 

これは基本ではあるが、だからこそ真摯に思い返したい。せっかくメンター資質を持っていても、知識自慢に陥ってしまい、資質を封じ込めているケースをよく見かけるからだ。

 

 

次回は、「自分を変える・自分を変えない」問題について、さらに掘り下げてみたい。

 

 

 

(続く)