なぜ「親の言葉」は軽くなってしまったのか

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少し前、ある程度のキャリアを持つ教育関係者と話す機会があった。そのとき、ある言葉が印象に残った。

 

 

「親の言葉が軽くなったと思われませんか?」

 

 

真意を尋ねると、彼は続けた。

 

 

「自分が年齢を重ねたせいもあるでしょう。学校教育も民間教育も含めて、教育がサービス化したことも理由に挙げられるのもわかります。しかし、それとは別に、もっと構造的な理由があるように思えてならないのです」

 

 

その彼は二十代前半から教育に携わってきた。新任当初は三十以上年齢の離れた親たちと渡り合い、人生経験の差によって突き付けられた自分の言葉の軽さに落胆した。年齢とともに、年上であった生徒の親が少しずつ自分の年齢に近づいていくにつれて、自分の言葉に引け目を感じなくなっていった。そうすると、相対的に親の言葉は軽くなる。

 

 

私よりひと回り近く年下の彼が教育業界に足を踏み入れたちょうどその頃、教育のサービス化が急速に進み始めた。他業種と同様に迅速な結果と心地良いサービスと明快さが求められるようになると、袋小路に追い込まれたネズミのように、あらゆる教育が「親という消費者」の要望に応えざるを得なくなった。

 

 

さらに彼は私に言った。

 

 

「私が新人だった十数年前には、自分の教育観を語る親が少なからずいました。子どもを将来こんな人間に育てたいという考えを聞いてから話を進めたものです。しかし、今はそんな話ができる親に出会うのはまれです」

 

 

社会が成熟に向かう過渡期として教育のサービス化は避けられず、むしろそれ自体は必要なことだ。サービスは教育の前提である公明正大につながる。幼少の頃から「わかりやすいもの」に慣れた子どもたちは「わかりにくいもの」に対する免疫力が低いという問題はさておき、サービスの透明性は教え手を淘汰する。「わかりやすいもの」は子どもを知的に鼓舞する。

 

 

しかし、親と子にとって「わかりやすいもの」の意味は異なる。子どもは教えられる上での「わかりやすさ」を求めるが、親は違う。親にとっての「わかりやすさ」とは、「目に見えるわかりやすい子どもの変化」を指す。それは「数値化される子どもの変化」と「数値化されない子どもの変化」から成る。

 

 

前者はテストの得点や模試の結果のような数値化され得る変化であり、親と子どもの双方が共有できる変化だ。後者は子どもの内面の成長のような数値化できない変化であり、子ども本人が気づきにくい変化をいう。

 

 

消費社会において「数値化されるもの」はスピードが要求される。しかし、スピードは教育に馴染まない。教育は本質的に時間を要するものだからだ。教育から時間を奪うほどに教育から遠ざかる。親が教育を「数値化されたわかりやすい子どもの変化」と錯誤した途端、結果に対するスピードを求め、教育の側は淘汰を避けようとその要望に応えざるを得なくなる。

 

 

その際、教育側は最も安易な手段として「ドーピング学習」を選択することになる。理解を黙殺した単純暗記学習による直接的ドーピング学習、大量の宿題漬けによって理解したことにする擬似的ドーピング学習。いずれも日本の義務教育と高等教育、民間教育で当たり前のように見られる光景だ。

 

 

強制的に敷かれたレールを走り、理解を置き去りにしたドーピング学習によって受験を逃げ切った子どもたちは、社会人になるとすぐ、受験勉強は役に立たないと上の世代に突き放される。ゆとり世代ださとり世代だなんだと一方的に揶揄され、自分の人生は自分の力で考えろ、自分の力でデザインしろ、自分の力で解決しろと言われるものの、どうしていいかわからない。上の世代に対する不信と軽視があまねく拡大し続ける。

 

 

メンター資質を持った人ならば、今の十代や二十代が抱える悩みを相談されたとき、ほとんど全ての問題の葉脈が一つの根にたどり着くことを実感しているだろう。

 

 

メンタリング、コーチング、コンサルティング、ティーチング。いずれの手法を取るにせよ、学校・職場・家庭において、人を育てる力が高くないことを再認識すべきだろう。特に人育ての点においては、上の世代の問題解決力の低下が目立つ。教育における問題解決とは、上の世代が下の世代に対して「問題解決能力を与えること」にある。上の世代の不安や不満という問題を解決することではない。

 

 

教育観を持っている人々に対しては、その教育観を洗練させるようなメンタリングが可能だ。しかし、教育観なき人々に対しては、「子どもや下の世代は親や上の世代の問題解決の道具ではない」という地点からティーチングを行わなくてはならない。それを理解させつつ、コーチングによる気づき、コンサルティングによる幾つかの解答を提示していくことになろう。

 

 

高一ギャップという言葉がある。高一の学習内容が中学に比べて難しくなることによって、高校の授業についていけなくなることをいう。日本の教育においては、総じてこのようなギャップが目立つ。学校と実社会ギャップ。受験と社会人ギャップ。学校と実人生ギャップ。

 

 

これらのギャップを埋めるには個人の努力が必要なのは言うまでもない。しかし、教育観なき教育のもと、学習耐性を身につける点に偏った教育を施し、非知性的知性を授けるのに躍起になった結果、人生の問題に対する免疫力が低い人間を育て上げてしまった。

 

 

この原因を親に求めていくと、「子育ての保育化」というワードが浮かび上がってくる。

 

 

(続く)