子どもを動かす三つの重さ 〜続・なぜ「親の言葉」は軽くなってしまったのか〜

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人生の問題に対する免疫力が低い人間が増えている。メンターの役割を果たしてきた人であれば、例外なくそのことに気づいているだろう。

 

 

その原因を親に求め考えを掘り下げた結果、「子育ての保育化」に行き着いた人も少なくないかもしれない。

 

 

子どもに快適な衣食住を与えて養育することを「保育」と定義する。幼児期までの中心であった「保育」は、子どもの成長とともに役割は薄れていく。しかし、子どもがとうに保育を求めていない年齢に達しても、「子育て=保育」から抜け出すことができない親は、子どもの変化にどのように対応していいかわからない。

 

 

「子どもが何を考えているかわからない」

 

 

メンターならば、いやメンターでなくとも、親と接する教育関係者ならば幾度となく耳にした親の言葉だろう。わからないのは当然。いつまでも幼児だと思って保育していた子どもが、大人へ向かって成長を始めているからだ。

 

 

子育てというのは、人育てである。保育の期間が終わり、自我が芽生えるようになると、自分とは何者で、どのように生きるべきかという「答え」を求めるようになる。快適な衣食住だけを求めていた子どもから、一人の人間として自己を確立しようとしてもがく存在へと変化する。

 

 

個人差はあるが、強い自我を抱いて大人へと向かう子どもは、もはや子どもであって子どもではない。親の保育がなければ何もできない無力な存在から、親の属性から離れた独自の存在になろうとあがく。自己の管理下にある保育の期間がずっと続くという親の側の錯覚が、子育てを緻密なプランニングとスケジューリングに走らせる。

 

 

しかしながら、それは保育から脱した子どもによって破綻する。親はその原因を生じさせた子どもの言動に対して、困惑し、混乱し、動揺する。結果、子どもが「なにを考えているかわからない」という考えに行き着くことになる。

 

 

メンターであれば、この場合の「なにを考えているかわからない」は「なぜ自分のプラン通りに動かないのかわからない」と読み替えられることを忘れてはならないだろう。「思春期だから」という社会心理をコピペして、その場しのぎの安心を張り付けるのはメンターの資質ではない。

 

 

確かにそれは親にとって鎮痛剤となり、対症療法となるかもしれない。しかし、原因療法とならないことは認識したい。

 

 

メンターは原因療法の延長上に対症療法を考える必要がある。この場合、必ずしも言葉にして伝えることだけがメンタリングではない。文の行間のように、無言のメッセージも療法になりうる。むしろ、原因療法は「行間」に埋もれている。

 

 

メンターであるあなたが相談者にこのことを説明すると、高い確率で次のような質問を受けるだろう。

 

 

「何を話していいかわかりません」

 

 

子育ては人育て。頭でそれを理解しても、子どもと何を話すべきか見当がつかないという。その場合、親である相談者の経験を子どもに話すように勧めるのが一般的かもしれない。しかし、経験というのは個別的だ。子どもにとって共感できない話をされても、現実的にはさほど距離は縮まらない。むしろ、内容によっては更に開く場合もある。

 

 

人育ての言葉は子どもの心に響かないと意味がない。自分の経験則を普遍化し、そこから教訓を見つけ、子どもの現状に合わせてカスタマイズして伝えることで、遠ざかる子どもの心に届く。「努力は必ず報われる」というありきたりの言葉を伝える場合でも、親自身の体験を元にすると、響きかたが違う。

 

 

人生経験の重さ、体験から普遍化する際に用いる人生観や世界観の重さ、子どもに合わせてカスタマイズする知の重さ。その三つの重さが渾然となって、親の言葉の重さを生み出す。

 

 

(了)