「大らかな人」ほど強いのはなぜか

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「大らかさ」を養う。それはHSPの人々が「高度で鋭敏な感受性」を武器とし、勝敗を至上の価値とする競争社会で「克ち残る」ために不可欠なことだ。競争社会において鈍い感性は、「鈍感力」という言葉に象徴されるように「強さ」とみなされる。手を加えない「高度で鋭敏な感受性」は弱点としてさらされる。

 

 

HSPの人々は「高度で鋭敏な感受性」に日々振り回されている。研ぎ澄まされた鋭敏な感覚によって、普通の人が気づかない周囲の変化や雰囲気を機敏に察知する。そのため地下水から絶え間なく溢れ出る湧水のように感情がとめどなく心に流れ込む。放っておくと心が「感情の水」に溺れてしまうのだ。

 

 

非HSPの人々もその状態に陥ることがある。「喜怒哀楽愛憎」が不測に暴発した場合がそうだ。しかし、それは一時的であり、HSPの人々のようにとめどなく溢れ続けたりはしない。

 

 

心が「感情の水」に溺れてしまうと、正常な判断ができなくなる。不安の洪水に息が止まる。それを防ぐため「感情の水」が心に届く前に、「器」を使ってすくい出す必要がある。その役目を果たすのが「言葉」だ。「言葉の器」の数が多いほど、「感情の水」もたくさんすくい出せる。言葉の数が解決力の高さに比例する理由はここにある。

 

 

HSPの人々の神経が高ぶり、ときに混乱するのは、「言葉の器」の数ではすくいきれないほどの「感情の水」が押し寄せるからだ。いくら言葉の数を増やしても追いつかない。この点が「言葉の少ない非HSPの人々」と決定的に異なる。この判断には注意したい。感情の起伏が激しい人がHSPとは限らない。

 

 

つまり、HSPの人々には「言葉の数を増やして解決力を高める」という一般的方法が通用しにくい。そこでメンターは他の方法を考えることになる。その結果、言葉そのものの「器」を大きく、深くすることによって、一度ですくい出す「感情の水」の量を増やすという結論にたどり着く。

 

 

同じ意味の言葉でも、使う人によって重さが変わる。経験と思考の深さが言葉に厚みを与える。どんな経験をして、何を考え、学んだか。それが「言葉の器」を大きくする。

 

 

しかし、経験は時間を求める。解決策を経験に任せることは、「感情の水」に溺れるHSPの人々にとって、何の対処にもならない。HSPの人々は、今その瞬間の苦しさを緩和して欲しいと望んでいる。ずっと特効薬を探し続けている。

 

 

経験が消去されれば、思考が残る。思考といっても、さほどの労力は要しない。他の人々と異なり、HSPの人々はその「高度に鋭敏な感受性」のために、幼い頃から思考を強いられている。メンターが「大らかさ」の視点を幾つか示すだけで、人によっては短期間で劇的な変化を瞬時に遂げることがある。

 

 

俯瞰的な視点を提示して、HSPの人々が囚われている場所から視点を移動する。この場合、水平方向の移動は避けた方がよい。確かに見える景色は変化するが、気分転換を解決と取り違えてしまう可能性があるからだ。垂直方向の視点の移動でなくては、「大らかさ」は身につかない。

 

 

「大らかさ」とは寛容性と公共性を軸とした世界観でもあり、コスモロジーにも繋がる。むしろ後者の方が時間的広がりを有する点で正鵠を射る。人は時間と空間を共有しているという認識が「大らかさ」の根源だからだ。

 

 

その認識は単なる前提に過ぎない。「エゴを手放す」という「大らかさ」の核となる前提である。両手に握り締めたエゴを手放さなずして、他のものは持てない。相手から差し出された手をとって握手もできない。エゴは停止であり、拒絶である。閉鎖であり、保身でもある。それは他者に対する不寛容を生み、「公共」を否定する。

 

 

「公共」の否定は結果的に「個」の否定につながる。公共の中に個は息づき、個が公共を潤す。公共はパブリックに、個はプライベートにそれぞれ対応する。両者はテーゼとアンチテーゼのように対立しつつも、両者を融合させながら、一段高いレベルを模索し続けている。ジンテーゼと呼ばれる動きだ。

 

 

公共というパブリックは「木」に例えられるだろう。パブリックという木の幹から、個という無数の枝葉が伸びている。枝葉同士は野太い幹を通じて繋がっている。そのような「木」の全体像をイメージすることで、「大らかさ」という世界観やコスモロジーが生まれる。

 

 

しかし、エゴは違う。独立した自分だけが浮遊して存在していると錯覚させる。そこに公共やパブリックの意識は存在しない。非知性的知性の土壌である。利害関係によって、エゴ同士の距離は決まる。利害が一致すれば近づき、なければ離れる。エゴを共有するグループが離散集合を繰り返す。HSPの人々はその動きが奏でる不協和音にことさら敏感である点を忘れてはならない。

 

 

社会には、二者間の関係・家族・学校・会社・地域社会・SNSの中に、エゴを共有し、エゴで繋がるグループが無数に潜伏する。自分の中の多様なエゴの一つの面と、他者の多様なエゴ一つの面が、状況に応じて接する。平面の存在同士が、紙ののりしろ部分のようにくっついては離れる。「薄っぺらい」のはエゴによって押し潰された平面的存在だからだ。

 

 

「高度で鋭敏な感受性」が「大らかさ」を取り込むと、背景と同化した紙のような平面的存在から、輪郭がはっきりした立体的な個へと向かい始める。立体は平面に影響されない。この流れのイメージが解決への分水嶺となる。

 

 

(了)