孤独感から自由になるシンクロ・コミュニケーション

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メンターが相手と向き合う際、相手が抱える鉛のような感覚を鋭敏に察知することがあるかもしれない。後ろ向きともネガティブとも違う。美味しそうに茹で上がったパスタの中の芯の堅さにも似た感覚と表現すればいいだろうか。

 

 

日本人は完全に茹で上がったパスタを好むが、イタリア人は芯が残ったアルデンテの食感を調和と捉える。そのアルデンテよりも芯が残ったパスタのような、全体の調和を乱すような芯の堅さ。メンターは相手の言動や雰囲気から機敏にそれを察知することがあるかもしれない。

 

 

相手が鋭敏な感受性を持っているHSPと呼ばれる人の場合、それは「孤独感」に由来すると認識して構わない。文字通り孤独を感じる感覚のことだが、反射的に「寂しさ」と同じ意味に解釈するのは避けた方がよい。それはメンターの資質ではない。

 

 

この二つを混同して言葉にすると、HSPの相手はメンターであるあなたを、容量オーバーになりつつある「鈍感な人間」の「フォルダ」に放り込み、それまでのように「他者にとっての自分」を演じる自分に戻る。メンターであるあなたに僅かな期待を抱いた自分を少し恥じながら。

 

 

「自分を理解してくれる人間」という「フォルダ」にせめて誰か一人を加えたいという淡い期待は、メンターという期待値の高い肩書きの分だけ失望へと変わり、分厚いファイルのような諦めと覚悟の上にまた別のファイルが綴じ込まれる。

 

 

メンターは相手の状況を言語化し、自分の言葉で定義することが求められる。その際、定義した言葉と対立するものを探さなくてはならない。そうしないと、自分の言葉を都合のいいように解釈し、相手とのズレを認識しないまま、それを相手に当てはめてメンタリングするという事態に陥る。これはもはやメンタリングとは呼べない。自分の経験と思い込みを過信した傲慢で鈍感な上司の言説を衣替えしたものだ。

 

 

相手も鈍感な人間ならそれでよい。ズレた見解であっても、それが鈍感な人間が考えたことのない「深さ」のものであれば、その「深さ」それ自体が彼らを刺激するからだ。しかし、鋭敏な人間は違う。彼らは十分過ぎるほど「深さ」を知っている。自分と同じ「深さ」を知らない人間の言葉には耳を傾けない。傾けるふりをする。

 

 

「孤独感」と「さみしさ」の深さは異なる。言葉を掘り下げようとしない言葉に鈍感な人間は、「孤独感」を「さみしさ」という浅い言葉に閉じ込めて浅い理解を積み重ね、世界の全てを知ったような素振りと勢いで断言する。鋭敏な感受性の人々はその「鈍感な勢い」が苦手だ。若さゆえの畏怖の欠如に等しい「鈍感な勢い」は、無神経に相手の神経を高ぶらせる。

 

 

「孤独感」の反対は「非孤独感」である。「さみしさ」の反対は「非孤独感」ではない。「非孤独感」に対する認識が「孤独感」を生む。この「非孤独感」はHSP特有の感覚と言ってよい。メンターがHSPに対してメンタリングを行う際には、「非孤独感」の把握は不可欠である。

 

 

「非孤独感」とは、自分の鋭敏な感受性と調和を奏でるコミュニケーションがなされている感覚をいう。HSPの人々は幸福の基準をそこに見出す。メンターはその認識を忘れてはならない。「シンクロ・コミニュケーション」とも呼ぶべきそのコミュニケーションがメンタリングの芯となる。

 

 

(続く)