続・大人の偏差値

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学生時代は「答えのある目の前の問題数」を他者と競い合う。他者の正答数の平均値と、自分の正答数の距離。偏差値はそれが数値化されたものだ。

 

 

「目の前の問題」は「点」だ。その問題を解くことにどんな意味があり、どんな未来と繋がっているのか。そんな疑問を抱かなくても、目の前にある問題を、エントリーしている他者より多く正解すれば偏差値は高くなる。

 

 

「だから自分は勉強以外の問題も解決できるはずだ」という過信が生まれるのも構造的に必然なのだろう。

 

 

しかし、実際は違う。人生の問題を解決できない人、解決した気になっている人が多数存在する。そこには学生時代に高い偏差値を得た人々も多く含まれる。彼らは「点」か「線」のいずれかの上を生きている。

 

 

「点」は現在と未来が繋がっていない。「線」は現在と「未来」が一本の線で繋がっている。

 

 

「点」の上にいる人は前進しない。ただじっとその場にいて、未来から向かってくる問題を場当たり的に解決するか、脈絡なく別の点に移動する。

 

 

「線」の上にいる人は、現在が思った通りの未来と繋がっていると信じている。その狭い一本の道に大きな壁が立ちはだかるとき、どうしていいかわからず、途方に暮れる。

 

 

一本の「線」の上にいる人の多くは、挫折を知らない人が多い。学生時代からある時期まで、「答えのある目の前の問題数」を解くことで評価された経験に支えられている。そのため、思い通りの一本の線をこれからも歩いけば、全てうまくいくはずだという錯覚から醒めることができない。

 

 

実際、このような人々が思い悩み相談に訪れる。私が「点」と「線」の話をすると、二つの異なる反応を見せる。

 

 

一つは、線から抜け出して解決力を高める方法を教えて欲しいという反応。もう一つは、問題は解決済みだという反応。

 

 

ここでの解決済みとは、自分できることは全部実行して解決したことを指している。しかし、それでも実際にはうまくいっていないのでどうしていいかわからないという。

 

 

私は前者には「面」の話をする。一本の「線」に平行する無数の「線」が接すれば「面」になる。知識を広げ、思考を深め、自分を確立し、これだと思い込んだ一本の線に平行して走る無数の線を融合して「面」にすれば、途中に壁がそびえていても、悠々と迂回できる。

 

 

後者には、二者関係についての話をする。ほとんどの問題は人間関係に端を発している。多くの人間が関係する複雑な問題も、細分化してみれば二者関係に行き着く。私に持ち込まれる相談は、内面的な問題を除いては、99パーセントが二者間の人間関係の問題だ。

 

 

それを指摘すると、前述のように「解決済み」だという返事されることが多い。そのとき私は次のように返すこともある。

 

 

「解決というのはあなたの納得ではありません。相手が納得してはじめて解決したと言えるのです。あなたが納得しても、相手が納得していない場合、それは解決ではありません。それは相手に解決を押し付けているのと同じなのです」

 

 

自分の力で「答えのある目の前の問題」をたくさん解いてきた人は、それしか解決する術を知らない。自分でやれることは全部やったのだから、あとは自分の責任ではない。相手が何とかすることだ。そうやって相手に問題の解決を押し付ける。

 

 

この問題は押し付ける側が鈍感な場合に発生する。押し付ける側と押し付けられる側が双方とも鈍感な人間の場合、攻撃的な軋轢が生じることになる。他方、押し付ける側が鈍感で、押しつけられる側が敏感な場合、押しつけた方が解決したことにして、相手に「解決責任」を転嫁する。

 

 

鈍感な人間と敏感な人間を分断して、対立を煽るつもりは毛頭ない。しかし、単に論説文の二項対立の手法を用いて、わかりやすく説明して終わらせるつもりもない。

 

 

敏感な人間は、鈍感な人間の鈍感さが引き起こす問題を、鈍感な人間の代わりに引き受けて解決している。ときにそれは複数がかりで、何十年にも渡ってなされる。鈍感な人間はそれを声高に否定し敏感な人間は黙する。それは肯定ではなく、「鈍感な勢い」に辟易しているだけなのだ。

 

 

この世界を細分化し、生きることの意味を言葉で掘り起こし、その痛みを言葉で和らげようと努力してきた敏感な人間の叡智。一本の「線」を「面」に広げて、解決の選択肢を広げ、生き方を探り続けてきた人文科学の智慧。

 

 

そこには多くの解決に向けての解決方法が多面的に提示されている。人類の遺産とも呼べる知の集積だ。臆せずにそれを学ぶことで、この世界の構図と輪郭が朧げながら浮かび上がる。それを頼りに自分の世界観や人生観を築き上げていくものだ。

 

 

それを蔑ろにして自分の経験と思い込みを相手に押し付ける鈍感さに、敏感な人間はおののく。その傲慢さと横柄さにおののく。それで他者に学べと命じたところで、一体どんな他者が耳を傾けるのだろう。

 

 

謙虚な知性は「線」を「面」にする。「面」になれば、自分が自由になれる。自分が自由になれば、周りも自由になれる。そうなると、相乗効果で自分も自由になれる。当然その逆も成り立つ。

 

 

思い込みや体験や慣習や常識から自由でなければ真の充実感は得られないと偉大な先人たちが懸命に伝えているのにもかかわらず、耳を貸そうとも学ぼうともしなければ、「大人の偏差値」が低いと疑われても致し方ないだろう。

 

 

(了)