共感覚を持つ教え子の話

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だいぶ前の話になる。

 

 

ひとりの小学生の女の子をお預かりした。最初は人見知りで私の顔も正視できなかったその子は、しだいに打ち解けて、積極的に身の回りのことを話してくれるようになった。

 

 

豊かな感受性を目元に湛えた子で、とびきり嬉しい話をするときは、誕生日ケーキのロウソクを吹き消すように顎を突き出す仕草をした。

 

 

やがてその子は小学校五年生に進級した。クラス替えが行われたその日も、机に身を乗り出し、顎を突き出して弾んだ声を私目がけて吹き付けた。

 

 

「今度新しく担任になった男の先生!顔はふつうだけど、いいにおいがするんだよ!」

 

 

「どんなにおい?」

 

 

「鼻のにおいじゃないの。でも、いいにおい。先生ならわかるでしょ?」

 

 

最後の言葉はどこか潤んだような、震えたような響きがあった。もし私が「そんなの知らない」と答えていたら、恐らくその子の未来は少なからず変わっていただろう。

 

 

わかるよ、と笑顔で即答する前の一秒にも満たない時間で、そんなことを思った。

 

 

「やっぱりわかると思った!」

 

 

その女の子の感覚は、共感覚と呼ばれるものであることはすぐに分かった。ひとつの感覚が刺激されると、別の感覚が刺激される感覚を共感覚という。音が見えたり、景色のにおいを感じたりする。共感覚を持つ私の別の教え子は、音階や音色に応じて、視野に赤や青の色が浮かんだ。

 

 

私が知る限り、共感覚を持つ人々は、その感覚を積極的に人に打ち明けようとはしない。実際、私が知る人たちは、幼い頃に周囲から「気のせい」とか「うそだ」と言われて育ったため、信じてもらうことを諦めていた。

 

 

もし私が「そんなの気のせいだよ」とか「勘違いじゃないの?」という軽石のような言葉を鈍感にぶつけてしまえば、その子は心に秘めてきたその「におい」のことを二度と話すまいと誓ったことだろう。

 

 

子どもの頃から大切にしてきた人形のように、その人の記憶と感情が滴るほど詰め込まれた「特別なもの」は誰にでもある。それを見つけ、目を細め眺めていれば、その持ち主はいずれ声をかけてくれるだろう。相手にとって「特別なもの」を特別であると認め、共感を示し、尊重してくれる人に心を開くのは自然なことではないだろうか。

 

 

(了)