学校優等生だった女子が大人になったとき

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女子生徒だった教え子が、彼氏や婚約者を連れて会いにきてくれることがある。その相手の話し方や言葉にはその人の考え方や物事の捉え方が透けていて、それを丹念に覗き込むと教え子の未来の姿がぼんやり見える。

 

 

いわゆる学校優等生と呼ばれる生徒がいる。教師から指示されたことは手を抜かずに取り組み、地道な努力をいとわず、部活と学業を両立させて成績も優秀。学校教師から真面目な生徒と評価されている。

 

 

あるとき婚約者を連れて僕のもとを訪れた教え子もそのタイプの女子だった。普段は笑顔なのだが、ふとした拍子に顔に険が走る瞬間があった。彼女の婚約者と話すうち、きっとその彼は教え子の険を取り除いてくれるだろうと思った。彼は「かけ算」で物事を考えられる男だった。

 

 

学校優等生だった女子は自分の努力を信じる。地道に努力すれば解決できないことはないと信じている。それだけの結果を残してきたと自負している。その経験を通じて「わり算」による考え方が身体に染み込んでいく。

 

 

人は問題に直面した際に、まず「足し算」と「引き算」を用いる。しかし、努力による数々の成就を体験し、そこに自信を見出している人は、「わり算」によって物事を割り切り、細かく整理して考える。しかし、現実という「割られる数」は自分の「割る数」で割り切れるとは限らず、むしろ「余り」が出ることが多い。手に余るその「余り」が彼女たちを悩ませる。

 

 

学校が用意する「割られる数」は、努力という「割る数」で割り切れるようにあらかじめ設定されている。学校優等生は努力で「割り切って」きたため、学校という枠組みから抜け出して「割り切れない」現実に直面すると、不安と苛立ちで険が刻まれる。それは一過性にとどまらず、そのまま年齢を重ねていく人も少なくない。

 

 

「割られる数」とは人が置かれている現実である。「割る数」とはその人自身だ。その人が置かれている現実をどんなに細かく割ったところで、その現実の中で閉じているだけで、その人は今の自分を超えられない。その焦りや不安が表情の下に隠している険をたびたび浮き上がらせる。

 

 

カナダの作家Merle Shainは次のような格言を残している。

 

Friends are people who help you be more yourself.

 

この格言は「友人とはあなたが『本当の自分』になる手助けをしてくれる人である」と訳される。友人は「身近な人」と読み替えられる。

 

 

「本当の自分」に出会うことは難しい。今の世界にいるのは「昔からの自分」であり、それによってこの世界をいくら割ったとしても、細切れにされた自分の記憶の断片に脅迫的に囲まれるに過ぎない。「かけ算」によって次から次へと新しい世界の姿を見せてくれる身近な人が、「昔からの自分」から「自分」を連れ出し、「本当の自分」へと導いてくれる。

 

 

数年後、婚約者を連れてきたその教え子に再会した。穏やかな表情に中に、かつてのような険は見当たらなかった。常に目先ばかりを見ていた彼女の幼くて頑なだった目は、遠くの景色を眺めるような成熟と寛容に満ちた目に変わっていた。