To the mentors of the future

不透明な時代を生きるための透明な自己肯定感を得る

「親力」の格差

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先日、無事に講演会を終えることができた。演壇から一望した参加者の方々の表情には、私の発言を余すところなく吸収しようという爛々とした意志が各人の瞳に宿っていた。そこには好奇心が乱反射した子どもの光とは異なり、落ち着いた学びの意志が滲んでいた。

 

 

子どもは偏差値で学力的な序列を付けられるが、親も「親力」という視点で序列化される。学力はテストによって数値化されるが、「親力」は数値化されない。しかし、数値化されないだけで、歴然と「親力の格差」は存在する。

 

 

「親力の格差」という表現が伝わりにくいとしたら、親の力量は8つのランクに分けられるという表現でも構わない。昭和の時代は比較的均一化されていた「親力」は、家族や地域社会の構造や質が変化して、選択肢が多様化し、親の見識と力量に応じて「親力の格差」が広がった。これも平成という時代の特徴だったように思う。

 

 

そもそも「子育てのゴール」を即答できる親の割合はどれだけだろう。「子どもの人生は子どものもの」という言葉の本質的な意味を、どれほど理解しているだろう。過干渉な親の中には、子どもが自分に従わなくなったとたん、自己責任を口にして突き放す親も少なくない。

 

 

感覚が鋭敏な子どもほど、自分に対する言葉の中に「親のエゴ」を数えて「親力」を採点する。長い時間をかけて、子どもは親という人間の「親力」をはかり、評価をつけている。「子どもの人生は子どものもの」という人生からの問いかけに謙虚に対峙し、正解を掘り下げなければ、新元号時代の主役となる子どもたちに厳しい評価を下されるだろう。

 

 

親が自分の「親力」を相対化するのは難しい。親としての自分の力量がどれほどなのか分からぬまま、過大評価と過小評価を繰り返しながら試行錯誤する。謙虚な親は子どもの反応やコミュニケーションから、自身の方法を軌道修正できるが、傲慢な親は子どもに「厳しい評価」を突きつけられるまで、強引な自分の方法に固執する。

 

 

謙虚さとは知性の集積である。知識は人を傲慢にも謙虚にもする。しかし、知識で磨いた知性は、人を謙虚にする。謙虚さは知性の証だ。それゆえに、謙虚さに欠けた人間は非知性的である。非知性的な人間ほど、人間を知らな過ぎるため人をコントロールできると考える。しかし、子どももまた人間である。大人より未熟ではあるが、未熟さの点では大人も変わりない。

 

 

知性とは、真善美を直観的に見抜く力をいう。何が「真」で、何が「善」で、何が「美しい」のかという核心を突く力。子育てや人育てにおいて、そして常識が次々と崩れる時代において、最も必要な力である。単なる知識集め、情報集め、共感集めを超えて、知性を磨く努力をし続ける。その姿勢が「親力」を飛躍的に高め、子どもの信頼や尊敬へと繋がっていく。

 

 

親とは自分以外のもうひとりの人間を育てる存在とも言える。自分と子どもを同時に育てていかなくてはならない。自分を育てずして、子どもは育たない。親を偉いと思わせる昭和の価値観は切り捨て、謙虚に自分を磨き、自分の言葉でこの世界の深さを説明できるようになれば、自ずと「親力」は高まる。少なくとも、これまで私が出会った高い「親力」の人々はそうだった。

 

 

(了)