「#保育士さんありがとう」の代わりに

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昨日、滋賀県大津市で保育園児の列に車が突っ込む、多数の死傷者が出るという痛ましい事故が発生した。

 

 

夕方、園長をはじめ運営法人の関係者が会見を開いたが、泣き崩れる園長に対し、居合わせた記者から園の過失に誘導するような質問が執拗に発せられ、正視に耐えないという印象を抱いた視聴者も多かった。

 

 

事故に巻き込まれたのは2歳と3歳の園児だったという。琵琶湖湖畔を散歩中の出来事だったとの報道を耳にして、すぐさま3歳だった生徒の顔が思い浮かんだ。

 

 

かつて私も幼児教育の一環として3歳児を預かった経験がある。認知能力と想像力が未熟な幼児にとっての「世界」は日常そのものだ。自然と触れ合うことで、五感が刺激され、みずみずしい感性が宿る。その時期の部屋に閉じこもってばかりの「勉強」は、未来に必要な感性を曇らせる。

 

 

幼児は自然と触れ合うことで、世界の広さを認識し、自分の「世界」を拡張していく。体が記憶した五感の「知」を、身体のすみずみまで染み渡らせるのが「遊び」である。その体験が教室での学びと繋がり、知識として幼児に取り込まれる。こうして幼児の中に「世界」を広げるサイクルが完成する。

 

 

毎週私は、その3歳の女の子の手を引き、地下鉄に乗って公園に連れて行った。

 

 

新緑の木漏れ日に縁取られた弾けるような笑顔。薫風に跳ねた綿毛のような前髪。濡れた紫陽花の雫を人差し指でつついたときの垂れた目尻。鴨やカエルの鳴き声に驚いた丸い目。リスのほっぺのようにドングリでぱんぱんに膨らんだ小さいポケット。すべてがその子の「世界」だった。

 

 

たったひとりのその子を公園に連れていくことでさえ、手に汗握る一大事だった。大通りを歩くとき、地下鉄に乗るとき、公園を歩くとき、繋いだ手の温かさが、かけがえのない命と未来の温度だと気づき、計り知れない責任の重さに身震いした。

 

 

たったひとりでさえ、そうだった。一度に多くの園児を連れて外出する保育士の方々の責任の重さとリスクの大きさには息をのむ。しかし、それでも保育士の方々が子どもを外に連れて出かけるのは、子どもの立場になって、心から子どものことを考えているためだ。

 

 

子どもたちの世界は、そのような保育士の方々のたゆまぬ日々の努力とホスピタリティによって彩られている。少しでも子どもを自然に触れさせたいという使命感が、子どもの未来を現場でひっそりと広げている。彼らはまさに懸命に「一隅を照らす」ことを続けている。

 

 

保育園のコンサルティングを行う立場となった今、職員の方々の園児に対するまなざしを見るたびに、社会には彼らの職責に相応する待遇を用意する義務があると感じる。家庭の役割を補完し、少子化を懸命に食い止め、この国の未来を根底で支えているのは、無責任に空論をそらんじる人々ではない。

 

 

子どもたちの未来は、落ち着いた「日常」の中に息づいている。何気ない会話や遊びや自然との触れ合いによってもたされたこみ上げる笑顔の数だけ、子どもたちの感性は豊かになる。その豊かな感性こそ、学力と人間性を高めることに、いったいどれだけの人が気づいているのだろう。子どもの未来は、そのような積み重ねによってつくられる。

 

 

事故と会見を受けて、ツイッター上には「#保育士さんありがとう」がトレンド入りした。タイムラインは保育士の方々に対する励ましと感謝の言葉で埋め尽くされていた。これほどの応援が自然発生的に起こる仕事を他に予想するのは難しい。保育士の方々に対するこみ上げる感謝の表れに他ならない。

 

 

「#保育士さんありがとう」の代わりに、私は子どもの未来をつくる仕事に携わる者として、ここに敬意を表したい。

 

 

(了)