To the mentors of the future

不透明な時代を生きるための透明な自己肯定感を得る

人の心を動かす力

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「どうあがいても論破できない現実」というのがある。

 

 

たとえば人の死がそうだ。どんなに言葉を尽くしても、人は死なないという結論を導くことはできない。

 

 

この「どうあがいても論破できない現実」は日常生活にも見られる。「好きな人が振り向いてくれない」とか「努力しているのに成果が出ない」など、直視したくない現実に直面したとき、人は真価が問われる。

 

 

そこで人間的成長が終わるのか、さらに成長できるのか、その真価が問われる。

 

 

「どうあがいても論破できない現実」に直面したほとんど全ての人は、これからどうすればいいかを考える。どうあがいても無理だから考えないようにしようという結論だとしても、考えていることに変わりはない。

 

 

考えるとは知性の働きだ。知性とは知識の量ではない。真善美を見極められる感性によって磨かれた知識が知性となる。偏った考え方、独善的な考え方、浅はかな考え方。そのいずれも、感性の乏しさか知識の乏しさ、または双方の乏しさによる。

 

 

真善美はそれぞれ、偽悪醜と対立する。裏返せば、真がわかるから偽がわかり、善がわかるから悪がわかり、美がわかるから醜がわかる。

 

 

対立するふたつのものを把握することで、その中間点である中庸がわかる。それがものごとの重心となる。重心がわかるからバランスがとれる。バランス感覚に長けた人は、ものごとの重心を把握している。

 

 

中庸がわからないから、自分の思い込みや経験則で人を判断してしまう。不運にも、偶然その思い込みが成功体験と結びついてしまうと、自分の考えこそ絶対的な基準だと信じ、それを他人に押し付ける。

 

 

押し付けられた人は、立場や境遇に追い込まれ、従わざるを得ない。押し付けた人は、その従った事実を見て、「自分は人の心を動かす力がある」と錯覚してしまう。

 

 

——従わせることと、人の心を動かすこと。

 

 

中庸というものごとの中心がわからない人は、その二つを混同してしまう。従っているのだから、心を動かせていると勘違いしてしまう。

 

 

しかし何かのきっかけで、「自分には人の心を動かす力はない」ということに気づいてしまうと、一気に自信は崩壊する。それは単なる自分の思い込みだったと知る。拠り所としていた強気の姿勢は崩れ、自信を失う。

 

 

人の心を動かす力がない。この「どうあがいても論破できない現実」を直視してから、本当の意味で人の成長は始まる。それまではその現実を乗り越えるための助走のようなものでしかない。

 

 

——自分には人を従わせる立場はあるが、人の心を動かす力はない。

 

 

そのことに気づいた人は、次のいずれかの反応を示す。

 

 

 

ただ感情的になる。

 

諦めて思考停止する。

 

その現実に打ちのめされる自分を守ろうと防御的な論破を試みる。

 

その現実を何かのせいにしようと攻撃的な論破を試みる。

 

自分を変えるために前に進む。

 

 

 

スタートラインに進むことができるのは最後の人だけだ。その時点で、「人の心を動かす力がない」という「どうあがいても論破できない現実」は「単なるひとつの現実」に変わる。割り切れないものを割り切ろうとしていたことに気づく。

 

 

現実は割り切れない。そこで、掛けたり足したり引いたりと、試行錯誤を繰り返す。すると「人の心を動かす力」とは「どうあがいても論破できない現実」を動かす力そのものでもあると気づく。その力は虚勢や虚栄とは無縁の、本当の意味での自信の源である。

 

 

すると次の階段が見えてくる。

 

 

(了)