To the mentors of the future

不透明な時代を生きるための透明な自己肯定感を得る

どうすれば子どもに幸せを教えることができるのか

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——「幸せになる」とはそういうことでもある。

 

 

前回のブログでそう締めくくった。その「幸せになる」という感覚は子育てと強く結びつく。子育てから親のエゴを差し引くと、「子どもが幸せになる」という純粋な目的が残る。

 

 

日本には「親孝行」と「親不孝」という言葉がある。子どもは親を敬い、尽くすべきであるという儒教的価値観が根付いている。それは日本の農耕文化と馴染み、ムラ社会を統治する上では都合の良い思想だった。

 

 

子どもは成長するにつれて自我を持つ。自分とは異なる「個」である親に対して反発する。それは子どもが一個の人間として意思を持って歩き出そうとする喜ばしい兆候なのだが、日本の親はそれを離脱とみなし、反発する。

 

 

日本では会社や組織を離れようとすると、裏切りや逃げという非難を浴びることが多いが、それは家族ムラからの離反と同じ構造だからだ。ムラというコミュニティの一部として帰属している人々にとっては、その「ムラに属している自分」が「自分」である。そのムラから離れるのは自己否定となるため、感情的な反応を示す。

 

 

親は従順でない子どもに対して、「親不孝だ」とか「親に逆らって」という切り札を使う。「親には従順であるべきだ」という家族ムラの掟に逆らった我が子に対して、うずまく負の感情のままにその言葉を発する。感情が理性を上回った時点で躾ではないのだが、掟を刷り込まれた親はそれを躾と信じて疑うことはない。

 

 

自分たちが子どもの頃は親の言うことに従ってきたのに、自分の子どもが自分に従わないのは理不尽だ。

 

 

そんな感情が親の胸の奥に眠っている。だから言うことを聞かない子どもに対して、言うことを聞かせようとする。上の世代から脈々と引き継がれてきた家族ムラの掟は、「子どもは親孝行するための存在」であり、「◯◯家の一部」という社会通念に支えられてきた。

 

 

多くの日本の親たちにとって、子育てとは「親の言うことを聞く子どもにする」ことである。なぜなら、自分たちがそうされてきたからだ。

 

 

しかし、社会構造の変化により、人間関係が希薄になった。家族ムラの掟は厳格な慣習法のような力を失ったが「子どもは親孝行するための存在」という意識だけは根強く残った。

 

 

さらに、親世代に導入された「個性」教育と、年齢性別を問わずお金を払えば思い通りにモノが手に入るという「消費者としての特権感覚」によって、「近代化したムラ社会の親」が続々と誕生した。

 

 

彼らは子どもを「家族ムラ所属」から「自己所有」へと認識を切り替え、自分たちに従順な存在へと誘導することを子育てだと無意識下で定義した。

 

 

こうして、「親孝行するために存在する親の自己所有の子ども」という像が、現代のある種の階層の親たちに蔓延するようになった。

 

 

当然のことながら、「子どもを所有した親の幸せ」は「親によって所有された子ども」の幸せに優先する。所有の本質からすれば当然の帰結だろう。

 

 

しかし、さらなる「個」性教育を施され、親世代以上の情報を手に入れたデジタルネイティブの子どもたちにとって、「子どもは親孝行するための存在」という言説は届かない。そんな不合理なムラのルールに従うほど、今の子どもたちは非合理的ではない。

 

 

彼らは親世代が手に入れらなかった「個」を少しずつ手に入れている。「個」を知らない親世代は、「個」を持ち始めた子どもを御しきれない。

 

 

そもそも「近代化したムラ社会の親」の多くは「親の言うことを聞く子どもにする」という以外の子育て方針を持たない。具体的な子育て哲学を尋ねて即答できる親は、本当の意味で「個」としての自分を確立している。権威主義や同調や横並びは、「個」とは正反対の場所にある。勝気や意地は「個」の確立を証明しない。それも結局は、他人と自分を比べている。

 

 

「個」は他人と自分を比較しない。

 

 

今の子育ての難しさは、「個」を手に入れつつある子どもを、「個」を確立していない親が育てるという構造的な矛盾に端を発している。その親が「子育てとは子どもを幸せにすること」と表明するとき、では「子どもが幸せになる」とはどういうことなのだろうという疑問が浮かぶ。

 

 

(続く)