To the mentors of the future

全世代の「教育力」を高める教育コーチのブログ

「成長」に疲れた人へ

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私は企業の人材育成コンサルティングも行なっている。経営者や役員に話を伺うと、人を育てる重要性の認識では一致しているのだが、企業によって認識の次元が異なるのが興味深い。

 

 

企業の業績のために社員を育てるという視点と、社員の人生のために社員を育てるという視点。認識が真っ二つに分かれる。

 

 

成長神話という言葉がある。高度成長に育った六十代は、経済的に成長し続けることが必要であるという考え方だ。それを行動規範としたその世代は、部下の育成や子育てにも当てはめ、「人間的成長」もそこに取り込まれた。

 

 

その考えは下の世代へと水滴のようにしたたり、「成長」を疑いなく信じる四十代から、氷河期世代の三十代やデジタルネイティブの二十代へと年齢が下がるにつれ、その水滴は届かず乾いていく。

 

 

四十代以上の上司の世代は部下に成長を促す。社員の成長は企業の成長という単純な方程式を当てはめているだけだが、二十代の社員はそれを見透かしている。会社は自分たちを利用して働かせるために「成長」という言葉を使うと考えている。当然、上司の言葉はまるで響かない。

 

 

実際その通りだ。社員の人生のために「成長」を促す企業は希少となってしまった。多くの経営者は松下幸之助や本田宗一郎のような経営哲学を知識として知っていても、人間的に成熟していないために知恵として活かせていない。企業や組織の利益と社員の成長を結びつけず、純粋に社員の幸せのために成長を促す企業があるとしたら、そこは人生を預けるに値する会社であると断言してよい。実際にそういう企業は存在する。

 

 

本来、成長は個人のためのものだ。相手の人生のために人間的成長を促す。しかし、歪んだ成長神話の風土の社会では、学校や家庭や組織や企業といった属しているコミュニティのための成長を強いる。

 

 

強制された成長は制裁を伴う。成長しなければ制裁するという暗黙のルールが蔓延した企業や組織では、常に制裁に怯えて過ごすことになる。疲れているのはそのためだ。

 

 

これは家庭にも当てはまる。成績が下がると、「○○禁止・○○を取り上げる」という制裁ルールを多数設定し、子育ての軸としている家庭もある。当然、その子は親になれば子どもに制裁する子育てを受け継ぐ。上司になれば部下にも制裁を加えるだろう。自分にも制裁して自己評価を低め、苦しみ続ける。

 

 

人を育てる側が成熟していないと、こうなる。成長の経験しか持たない者は相手にひたすら成長のみを強いる。成熟してない人間は、経済が成長し続けるように、成長すれば人生の利益が増え続けると考えている。

 

 

水の沸騰温度が100℃を超えないように、成長にも上限がある。100℃に達してなお熱し続けても、お湯の温度は変わらず、熱する行為そのものに中毒しているだけに過ぎない。

 

 

人は、経験してもわからない人、経験してわかる人、経験しなくてもわかる人の三種類に分類される。

 

 

大半は年齢とともにわかることが増えて成長する。しかし、成長と成熟は異なる。高齢でも成熟していない大人はたくさんいる。経験の多さ、年齢と成熟は関係がない。成熟せずにこの世を去る人も大勢いる。このブログは十代や二十代の方も読んでいるようだが、人生の早い時期にそのことを理解した方がよい。

 

 

成長は高さだが、成熟とは深さである。ネットや書籍には「成長」の言葉が無数に踊っているが、成熟については触れられていない。「前向き」や「努力」で成長はできるが成熟はできない。成熟とは、時間と感性と知恵と経験によって生み出された「多様であるたった一つのもの」である。

 

 

成熟している人間だけが口にする言葉がある。それを見抜くためにも多読と精読を勧める。その言葉に触れて初めて、本当の意味の成長とその重要性がわかる。成長とは世間体や見栄を守る何かを得るためではなく、自分が自分である大切な何かを失わないためのものだ。

 

 

(了)