To the mentors of the future

不透明な時代を生きるための透明な自己肯定感を得る

人は「目に見えない服装」で判断される

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高校時代、私は服装が自由な男子校に通っていた。

 

 

制服と校則に縛られていた中学から一転、服装も髪型も自由。最初はその自由が嬉しくてたまらなかったが、やがて少しずつ負担になり始めた。

 

 

与えられた制服と違って、私服は自分の選択だからセンスが問われる。言い訳が効かない。制服であれば、着こなしに差が表れるにせよ、みんな同じ服装なのでセンスは顕在化しない。

 

 

服装にはセンスが表れる。服装は気にしないという人であっても、「服装は気にしない」というセンスが読み取れてしまう。

 

 

センスとは感性が表面化したものだ。人は服装を通じて、自分がどんな感性の人間であるか、周囲にシグナルを発している。高校時代それに気づき、ファションやブランドに精通した時期があった。デザインに興味を持ったのもその頃だった。

 

 

デザイナーによるブランドの服とそれ以外の服は明らかに違う。似たようなデザインでも、カッティングの洗練の度合いが異なるため、実際に着たときの印象はまるで違う。そのことを知ってから、多少無理をしても特定のブランドやデザイナーの服を買うようになった。

 

 

そのおかげで服装に対する審美眼はある程度養われたように思う。反面、特定のブランドやデザイナーの服を着ているという小さな優越感が巣食うようになり、自分に合った服を選ぶという感性が鈍り始めて危機感を抱いた。

 

 

ブランドは着る人を選ぶ。小学生がシャネルを着ても似合わない。シャネルはココシャネルの人生観と世界観が反映された服だからだ。シャネルのステータスだけに価値を見出す感性の鈍い人々は、シャネルそのものの素晴らしさではなく、シャネルを「所有する」素晴らしさに価値を見出す。

 

 

こうなると、「所有して身につける優越感」に感性は麻痺してしまい、似合わないのに堂々と着続けることになる。考えることも、感性を磨くこともやめてしまったというシグナルを発しているにもかかわらず、当人はそれに気づいていない。シャネルの所有を羨ましいと感じるある種の層の眼差しを、自分の生き方に対する憧れと錯覚してしまう。

 

 

何を着るかよりも、どんな風に着こなすか。服に自分の価値を高めてもらうのではなく、自分が服の価値を高める。もしあなたが廉価な服を着ているにもかかわらず、高価そうな服だと褒められたら、服を着こなしていると考えて構わない。

 

 

どんな服を着るかよりも、どんな人がどんな風に着こなすか。ファッションを真剣に考えることによって辿り着いたひとつの結論は、全ての物事に通じるものだと年齢を重ねて気づいた。

 

 

「目に見える服装」の価値を高めるのは、「目に見えない服装」の質と量と「着こなし」である。「目に見えない服装」を着こなすことによって、「目に見える服装」の価値を高め、本当の意味で「憧れられる人」になる。

 

 

「目に見えない服装」は誰でも持つことができる。しかし、多くの人は、なかなかその力に気づかない。「目に見えない服装」を優雅に、爽やかに、淑やかに、快活に着こなしながら、人は成熟へと向かう。

 

 

本当にセンスの良い人は、「目に見える服装」に成熟を滲ませて、センスの良さを控え目に醸し出す。

 

 

(了)