To the mentors of the future

不透明な時代の生き方を探すライフコーチング

有事の思いやり

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新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない。株価は急落。経済にも深刻な影響を及ぼしている。有事の様相を呈する中、先の見えない出口に、社会不安が増大している。

 

 

国家、企業、組織、そして個人。

 

 

そのありのままの姿が現れるのは、現在のような有事の場合だ。平時の「快適な状況」が奪われたときに、普段は見栄えの良い服装で覆われた知性と人間性が身ぐるみ剥がされる。「思いやり」のない姿がが目立ち始める。

 

 

——思いやり。

 

 

手垢のついた言葉だろうか。未就学児や小学校の低学年の生徒が園や学校でそらんじる幼い言葉だろうか。

 

 

平時に人を思いやるのは難しいことではない。むしろ、自分にとって快適な状況である平時に人を思いやることができないとしたら、人間として根本的な何かが欠けている。学歴で繕ってもはみ出してしまう人間性の欠如を背負い、周囲の人々の反面教師として暮らしていくことになる。

 

 

知性と成績に相関関係はあるが、因果関係はない。知性的であれば成績は高いだろうが、成績がよいからといって知性的とは限らない。

 

 

さまざまなチャンネルを通じて教育に携わり30年。わたしは知性と成績の「因果関係の錯誤」に陥っている人をずいぶんと見かけた。「思いやり」など成績の役に立たないとばかりに、その優先順位をとことんまで下げた姿を見聞きしてきた。

 

 

道徳を広めたいわけではない。ただ、学びや成績に敏感な社会でありながら、他者への「思いやり」が巡り巡って自分のためになるという浅い知性に首を傾げている。

 

 

真に知性的であれば、他人と自分を利する行動を選択する。それは「真」であるからこそシンプルで、整った数式のように「美」しい。それが結果として、「思いやり」という道徳的「善」行として括られる。

 

 

こうして、「真善美」は「思いやり」の後ろ盾となる。小学生の頃、標語の紙に筆で書かれた「思いやり」の言葉の厚みに気づかない知性を果たして知性と呼べるのだろうか。

 

 

例えば、報道やデマに流され、買い占めを行う。その「思いやり」を欠いた行動が何をもたらすか想像できないとしたら。保育や介護や医療現場など、本当の必要な人に物資が行き渡らないというだけで済む話ではない。

 

 

子どもたちは大人のその姿を学び、大人に失望し、反面教師とし、やがてそのような大人の姿をこっそり真似る。「世の中ってそういうものだし」という言い訳の言葉をこっそり口にして、尊敬という言葉を死語として過去に捨てていく。

 

 

そうした大人の姿を目の当たりにしながら、子どもたちは育つ。「思いやり」が大事と口先でうそぶくリテラシーとデリカシーを失った大人たちが、デマに踊らされ、我先に買い占める背中を目に焼き付けて育つことになる。

 

 

彼らが大人として日本を背負って立つとき、「大人」に対するイメージの一端を、有事に買い占めに走った大人と重ねるかもしれない。そのときに、彼らは老いた「あなた」にどんな目を向けるだろうか。

 

 

真も善も美も希薄な未来。その世界で呼吸する息苦しさを想像できる知性があれば、と思う。

 

 

時間を超える想像力まで求めない。オイルショックといった過去の話と比較したり、刑法の緊急避難のような論理で自分の保身をするために「知性」を用いるのではなく、買い占めることで困る人々の痛みに、ほんの少し思いを馳せるだけで構わない。

 

 

ひとつ余分に買わないことで、ひとり助かる人がいる。真も善も要らない。ただほんの少しだけ、こっそり美しい振る舞いをするだけで、助かる人がいる。それを記憶にとどめても、買い占めた両手の重さほどの負担にはならないはずだ。

 

 

(了)