To the mentors of the future

全世代の「教育力」を高める教育コーチのブログ

誉めて伸ばす?叱って伸ばす?

「子どもの力を伸ばすには、優しく誉めた方がいいのでしょうか。それとも、厳しく叱った方がいいのでしょうか」

 

 

そういう質問を受けることがある。親に限ったことではなく、教育関係者からも同じようなことを尋ねられる。

 

 

誉めるか叱るか。子どもへの接し方をあらかじめ決める必要はあるのだろうか。誉めるべき時に誉めればいい。叱るべき時に叱ればいい。どちらか一方に決めるのは、マニュアルの発想に過ぎない。マニュアルは時として不測の事態に対応する力を奪う。

 

 

「コミュ障」という言葉がネットを飛び交っている。コミュニケーションが不得手な人々を揶揄した表現だ。他者との距離感がつかめない人々が急速に増えている。子どもとの接し方に悩む人々もここに括られるだろう。子育ては不測の事態に対応するコミュニケーションの連続だからだ。

 

 

しかし、そもそもコミュニケーションのスキル以前に、その前提に錯誤があるように思える。

 

 

コミュニケーションの基本とは何か。それは相手を不快にさせないことだ。相手の話も聞かずに、一方的に決めつけた話をする人間に誰が心を開くだろう。かと言って、相手に媚びるだけのコミュニケーションも違う。互いの距離を双方で縮めるのがコミュケーションの目的である以上、やがてそれは破綻する。

 

 

叱るとは人格を否定することではない。誉めるとは甘やかすことではない。叱ると誉めるについて考える前に、それをはき違えていないだろうか。

 

 

子育てには厳しく叱ることは必要だ。しかし、それはブレーキと同じ役割に過ぎない。誉められてスピードに乗った子どもが、他者や自分を傷つける恐れのある時に周囲が「厳しく叱る」というブレーキをかける。

 

 

ことあるごとにブレーキを踏んでいたら、子どもはスピードに乗れるはずがない。力を伸ばしようがない。誉めて子どもにアクセルを踏ませるか、叱るというブレーキをかけるか、それは日頃のコミュニケーションで判断する。それが子育てには最も大切なことだ。

 

 

叱ると誉めるの意味もわかっている。子どもとコミュニケーションも取れている。そうであったとして、叱ることを基本した子育てと誉めることを基本とした子育てではどちらがいいだろうか。

 

 

どちらも同じように立派に育ったとして、私なら誉めることを基本とした子育てと教育を迷わずに選ぶ。

 

 

人生は有限である。認められ心躍る瞬間が多ければ多い方がよいと思う。それは自分を肯定する力となって、自分を自由にする。困難な時でも前を向くことができる力となる。

 

 

否定された子どもは、自分も他者も否定する。自分の子どもも否定する。そのスパイラルを断ち切るのは容易なことではない。だが、どこかで断ち切らなければならない。それまでの自分を肯定するために、自分が受けた否定的なやり方に固執するのは、自分を否定し続けるのと変わらない。

 

 

否定は否定しか生まない。しかし、肯定は肯定を生む。

 

 

子育てや教育にとっての肯定は誉めることだ。誉め方がわからないとしたら、誉め方を探して頂きたいと思う。

 

 

スパイラルを断ち切るために。

 

 

(了)