「食育」が叫ばれて久しい。
食育・食生活指針の情報センターによれば、食育とは「国民一人一人が、生涯を通じた健全な食生活の実現、食文化の継承、健康の確保等が図れるよう、自らの食について考える習慣や食に関する様々な知識と食を選択する判断力を楽しく身に付けるための学習等の取組み」と定義されている。
自分が口にして食べているものが、いかに身体にとって重要であるかを認識する。自分の健康とは何か、食とは何かを考え、食べるものを選び、判断している。その一連の姿勢が「食育」であると言えるだろう。
私は学力を高める姿勢を、「食育」にちなんで「学育」と呼ぶ。それは「子どもにとっての食の重要性を親が認識して、適切な選択と判断によって与える」ことは、「子どもにとっての学力の重要性を親が認識して、適切な選択と判断によって与える」と読み替えることができるからだ。
「食」と「学力」は質的に同じである。どちらも子どもの生活と密着している。それだけではない。時代の文化の影響を強く受けている。
子どもの「食」は危険に晒されている。意識の高い親の方々はご存知だろう。子どもたちが物を口に運ぶごとに、農薬や食品添加物はもちろん、飽和脂肪酸やトランス脂肪酸のリスクと直面する。
これらは日常的に口にする食べ物の多くに含まれている。子どもたちがそれを過度に採り続けるリスクは、見栄えの良さときれいな包装と華美なイメージで包まれている。そのリスクから子どもの健康を守ろうとする意識の高い親の方々が、その知識を自分で得て、子どもに何を与えるかについての選択と判断をする。
「食育」という考えが広まり、「子どもを守る」という視点から、選択と判断を積極的に行う親が増えてきたのは喜ばしい。それは前提として、「食」が子どもに与える影響の大きさと深刻さを認識しているからに他ならない。
認識と判断。
親が「子どもを守る」ということは、ある意味高いレベルでこの二つを持ち合わせるということでもある。
高いレベルには、現在と未来のつながりをイメージする力も含まれる。常に子どもの未来をイメージする。現在とのつながりを認識する。現在を取り繕った結果が「未来」ではない。
与えることは必要だ。しかし、与えないことも同じくらい必要だ。一方で、リスクに怯え過ぎて、過度に「与えない」のも賢明な選択とは呼べない。未来をイメージした時に、「与えないリスク」が「与えるリスク」上回る選択は避けた方がよい。子どもが現在という現実を生きている「現実」は避けることができないからだ。
多少毒が含まれているとしても、子どもたちに「現実」を生きる耐性をつけさせるのも認識と判断のひとつだろう。予防接種もあらかじめ抗体を体内に入れて耐性をつける。
やみくもに排除しても、ひたすら与え続けても、本当の意味で「子どもを守る」ことはできない。この認識と判断は子育てにおいて最も重要なひとつだろう。
(了)