(前号からのつづき)
最初は哲学的(philosophical)な視点について書いてみたい。
子育ては親の哲学ありき。哲学なき教育は「単なる訓練」であり、哲学なき受験は「単なる競争」に過ぎない。
「単なる訓練」と「単なる競争」は場当たり的な結果だけを求める。哲学なきゆえに、「とにかく結果を出す」という「結果の発想」と「とにかくやらせる」という「量の発想」に陥りがちだ。
話は少し逸れるが、強い野球チームは優れた監督とコーチがいる。優れた監督とは確固たる野球哲学を以ている人物だ。優秀なコーチとは監督の哲学を把握して、選手を現場で実際に指導する。プロデューサーとディレクターの関係も同じであろう。強い組織やチームは、哲学と現場を司る二者間が上手く機能している。
これを家庭に置き換えてみる。長いスパンで子どもの成長や将来の人間像を描き出す監督のような役割と、それを日常という現場で実際に子どもの世話をするコーチのような役割が求められる。前者の多くは父親で、後者の多くは母親となるのが一般的だ。それは男性と女性の資質に関係しているのだろう。
子どもをどんな人間に育てるのか。どうやって育てるのか。なぜそんな人間に育てるのか。これは父親の哲学によって描かれることが多い。そのためには、実際の日常でどのように子どもの相手をして、取り計らい、対処して、教えていくのか。それは母親の聡明さによって動かされる。
家庭によってこの役割は転じることもあるだろう。どちらがどちらであるべきだということはない。大切なのは、この二者間のバランスが子育てには欠かせないということだ。どちらが肥大して、どちらが縮小してもいけない。監督がコーチの役割にまで口を挟み過ぎれば、コーチは萎縮してしまうだろう。現場にはそぐわない観念的な話ばかりを押し付けられても、コーチも選手も戸惑う。監督がコーチに丸投げすれば、目先の勝利ばかりにこだわる練習を重ねて、長い目で見れば選手を疲弊させ、優勝はおろかAクラスからも遠ざかる。
この均衡こそが子育ての軸になる。そのためには、互いの意志の疎通が密になされなければならないのは言うまでもない。選手とコーチの考え方が異なれば、戸惑うのは選手だ。そのようなチームが強かったためしはない。
実際には現場のコーチが力を握りやすい。裏返せばそれは「結果の発想」と「量の発想」に偏りがちなことを意味する。そのような平面的で場当たり的な視点から、立体的で長期的な視点でバランスを取る必要がある。反面、哲学的で観念的過ぎるがゆえに、実際に学力の基礎が身に付いていない場合は「量の発想」で現場が力をつけさせなければならない。
私はこの二者の役割を自分の中に同居させ、常にバランスを取っている。生徒や保護者がどちらに寄っているかを判断して対処する。バランス感覚を失った子育ては上手くいかない。「理」に走り過ぎても、「利」に走り過ぎてもいけない。軸があることと、偏ることは違う。
対策の繰り返しで目先の数字を追うだけでは、立ち止まったところがゴールになるだけだ。その平面性を超えるには、教育哲学を持ち、立体的に子育てを捉えることが必要となる。しかし、それが終わりではない。実際には、その哲学を実際に運用していくための「哲学」を持つことも同じくらい重要だ。人が人を教育するには、学校においても家庭においても、その両面のバランスを保つことが不可欠となる。
(続く)