(前号からのつづき)
キリンを知らない子どもが「キリンの粘土像」を作る場面を想像して欲しい。
その子どもはキリンのことを知らないので、誰かにキリンのことを教わる必要がある。そこで「キリンのことを教える人」が「キリンのことを知らない子ども」の前に現れる。
キリンのことを教えたり、教わったりする時間のことを「授業」と呼ぶ。「キリンのことを教える人」は「先生」となり、「キリンのことを知らない子ども」は「生徒」となる。
先生はもちろん生徒よりもキリンについて「知って」いる。だから「先生」となることができる。しかし、知っていることは、「先生」によって同じとは限らない。何を「知って」いるかは、どのように伝えるかとは別の話になる。
ここにキリンを知っている4人の先生がいる。
一人目の先生はキリンを見たことがない。「知って」いるのは「首が長い動物」ということだけだ。その先生は生徒に向かって、「首が長い動物を作りなさい」と言うかもしれない。「キリンは首が長いのだから、とにかく首を長くすればキリンになる」と言われた生徒は、釣り竿のように細くて長い首を作ることに時間をかける。
二人目の先生は「切り絵」のキリンを見たことがある。キリンの姿を影絵のようにかたどった切り絵と同じ絵をホワイトボードに描いて、「さあ、これがキリンだよ」と言うかもしれない。生徒はそれを見て、こんにゃくのように平べったいキリンを作るかもしれない。
三番目の先生は、本物のキリンを実際に見たことがある。その先生はキリンの立体的な姿形を知っているので、大きさや肉付きか各部のバランスを、伝え方が上手ければ、正確に生徒に教えることができる。
キリンが立っている姿だけではなく、休んでいる様子、長い首を使って餌を取る様子など、キリンの様子を生き生きと伝える。生徒はその話を聞いて、見たことのないキリンという生き物をイメージしながら、キリンの粘土像を作る。
最後の先生は、キリンの体の構造や生態までも知っている。キリンの首が長い理由や舌の長さ、首の骨の数、水を飲む時や眠る時の姿勢などについて生徒に教える。伝え方が上手ければ、生徒のイメージは膨らみ、キリンに興味を持つ生徒も少なくないだろう。
一見、それは粘土像の出来映えと関係ないように思える。だが、果たして本当にそうだろうか。
(続く)