(前号からのつづき)
プラクティカルな知識とは、実用的な知識である。それは「実人生に役立つ」知識であり、「自分の人生を自分のものにするために役立つ」知識を指す。
知識は様々なカテゴリに分類されうる。一般常識もあれば、仕事に必要な専門分野の知識もある。資格を得るために必要とされる知識もある。
例えば受験の知識はどうだろうか。もちろん、志望校合格を目的とした知識である。だが、合格した時点でそれを切り捨てるか、合格後もそれを抱えていくか。それがプラクティカルな知識の分かれ目となる。
受験の知識は無駄なので、合格後に忘れた方がよい。そういう意見を耳にしたことがある。随分と小さい世界の考え方だと思う。器の小ささをひしひしと感じる。
目的を果たしたものは切り捨てて身軽にする。確かに合理性に富んだ考え方ではある。だが、「無駄」を排除する合理性が、実は最もプラクティカルなものを奪っている。「無駄」は自分にとって目的外ということであって、実人生にとっての目的外ではない。自分の世界が小さければ、「無駄」と規定する知識は必然的に多くなる。
これは価値の認識とも言えるだろう。
自分の世界に存在しないものを無駄と決めつけ、プラクティカルになり得るものを捨てる。これは価値が分からないのと同じことだ。自分の価値観だけを絶対視して、疑わない。その結果、価値ある知識を無駄と思い込み、プラクティカルな知識を得る機会を手放している。
偏差値の高い学校に合格した。難関大学を卒業した。もちろんそれは素晴らしい。しかし、それは将来の円満な人間関係や充実した仕事を保証するものではない。友人に助けられ、良き伴侶と出会い、困難な時代を乗り越えていくことを裏打ちしない。
存在する知識は、無駄にも実用的にもなりうる。それを決めるのは学び手だ。教え手は、その決め方と見分け方を、学び手たる子どもに教える必要がある。受験で偏差値を高める知識は持っている。だが、実人生を善く生きる知識は乏しい。
子育てや教育が世俗知に塗れたゴールに向かうのなら、子どもは損得の価値を追い続ける。目先の損得を小刻みに追っているうちは、「人として一流」にはなれない。
「人として一流」という教育の本質を見失ってしまえば、数多の世俗知の中に実用性を見出すことになる。
(続く)