相手を理解するには、その違いと共通点を認識するのが手っ取り早い。
大人と子どもの違いは何か。それはいくらでも挙げられるだろう。
それでは、大人と子どもの共通点は何か。
それは「未熟さ」である。
大人も子どもも、ともに未熟である。未熟さの質が異なるだけで、共に未熟である。大人と子どもの共通点は未熟さであり、その違いは未熟さの質である。
大人は未熟さを背負っている。子どもと比較して完成した部分が多いだけで、「未熟さを抱えた存在」に変わりはない。
大人は未熟さを隠すのが上手い。だが、そうやって未熟さを隠し続けているうちに、自分に未熟な点はないと錯覚する。それが傲慢さや横柄さにつながる。
つまずき、間違い、立ち止まること。それが未熟さである。未熟さは一時的な現象であって、状態ではない。だが、未熟であることを意識しなくなれば、未熟な状態のまま固定する。未熟な人間のままであり続ける。
未熟さは成熟の過程である。失敗や、後悔や、反省は、成熟の道のりで当然出会う心の出来事だ。それは両手を広げて歓迎されるべきものだ。それらを乗り越えない成熟はない。
未熟さをあげつらうのは、成熟への道のりから外れた人間だ。自分の未熟さを隠し続けて、いつしか未熟であることを忘れ去ってしまった人。そういう大人ほど、他人の未熟さを責め立てる。
成熟へと向かう歩幅の広さと力強さ。早く山を登り始めた人間が、高い地点にいるのは当然のことだ。その「当然なこと」が当然なままでいることを、時間は許さない。転んで傷ついても力強い歩調で登り続ける「子どもと呼ばれた人々」の姿が見えた時、「大人と呼ばれる人々」が筋肉の衰えた脚を再び動かすのは至難の業だ。
未熟さを背負い、日々脚を動かす。そうすれば、転び、つまずいた子どもにかける言葉も自ずと絞られる。
未熟さを減らすことが成熟ではない。成熟の仕方を示すのは、先を登る人々の義務である。そう考えるのも、成熟に必要な幾つかの情感の一つだろう。
(了)