自分を知る。我が子を知る。
それはこの世界で最も難しい知のひとつだろう。
自分や我が子に合わないものは合わない。アレルギー食品を食べられないように、努力で超えられるものではない。
その至ってシンプルな結論を、人は時に無視する。
それは人が自然の一部であるという極めて当然の摂理を無視して、人が思い通りに自然を利用して、破壊を繰り返す世界の現状をそのまま反映している。
人の周囲を対象物として自然が取り囲み、自然の土台の上に人が立つ。人と自然を別物として捉えたデカルト二元論では、自然は人にとって利用される対象物に過ぎない。
人は自然な存在だ。人そのものが自然であり、自分の内に自然がある。
自分を知るとは「自然の自分を知る」ということだ。「自分に合うものは何か」という問いに対する答えはそこにある。
だが、人は「自然の自分や我が子を知る」という努力を怠り、思慮深さからかけ離れた根拠のない万能感を振りかざし、どこかで見たモデルケースに向かって「自分にもできるはずだ」「我が子にもできるはずだ」と進んでいく。
合わないものは合わない。自分や我が子という自然に反した「人工的な圧力」はその人を壊す。自分の思い込み、誰かの思い込みが壊していく。今この瞬間も、そうやって誰かが壊れている。
自分にとっての「自然」とは何か。我が子にとっての「自然」とは何か。それを知らないことには、実は何も前に進んではいない。その「自然」に合うものを見つけ出し、それに向かって努力を重ねることで結実する。
世界には見栄えのするモデルケースがごまんと転がっている。外の世界に目を向け、それに憧れるのは力となる。反面、同じベクトルで内なる自分の自然を知る努力から遠ざかっている。
自分の「自然」を見つけたなら、社会という「人工」とその自然を共存させる方法を考える。我が子の「自然」に気がついたなら、それが新緑の芽吹きに満ちるような環境を整える。
この人工的な情報の波に無批判に乗っていくだけでは、自分や我が子の「自然」は放置され、やがて枯れ果ててしまう。華々しいモデルケースを自分や我が子の目標に設定しても、合っていなければアレルギーと同じ拒絶反応に苦しむだけだ。
思考は自分や我が子の自然を守るための武器だ。自分や我が子に合わないものは合わない。その「自然」を人工的な空間に作り替えようとするのではなく、生まれながらの豊かな緑を守り続ける。
自然と人工の共存という考えが、生き方や子育てにも広く浸透する時代が到来しつつある。そう感じている。
(了)