時間は貨物列車のようだと思う。
それぞれのコンテナがつながり一両の列車を構成している。列車の最後尾は過去で、先頭は未来。過去から未来の時間が一続きとなって前に進んでいる。
次のコンテナから次のコンテナへ。経験するということは区切られた時空間を渡り歩くことでもある。
コンテナごとに様々な経験が待ち受けていることだろう。身を切るような寒さが吹きつける日々もあれば、穏やかな時間がゆっくりと流れているかもしれない。もちろん試練に満ちたコンテナもあるだろう。
逃げ出したくなるような重圧が立ち込め、息苦しさを覚える空間。一刻も早く次のコンテナに移りたいと気が焦る。何をやってもうまくいかない。しかし結果が求められる。そういう時間は必ず訪れる。
そういう時は、楽しむ。
楽しむとは気を紛らわすことではない。気を楽にするために手を抜くことでもない。それは意味と価値を認識するということだ。
コンテナの中でもがいているうちは、その重圧から抜け出せない。それは身体と心から自由を奪い、やがて身動きひとつできなくなる。努力を繰り返しても、歯車がかみあわず、底なし沼に足を取られるように、自分の存在が時間の中に沈み込んでいく。
コンテナから抜け出る。コンテナの中で自分をがんじがらめにしているのは、他でもない自分自身だ。簡単に抜け出すことができるのに、抜け出せないと思い込んでいる。
コンテナの外に出て、列車という時間の外に出て、自分がいるコンテナを眺めてみる。その時間と経験にどんな意味と価値があるかを考えてみる。時間の外に自分を置くことで、見えなかった意味と価値が見えるようになる。再びコンテナの中に戻ったときには、前に感じていた重圧に心地良さえ覚えるだろう。
自分を自由にすることで、今の時間が自分にとってどれほど意味があり、価値あるものかが認識できる。コンテナの出入りを自由にできる人間が、今を楽しむことができる。
無駄な経験はなにひとつない。意味と価値は常に内在する。今を楽しめる人間は、いつでもそれに気づくことができる。
(了)