頑張らなくていい。
そんなフレーズを頻繁に耳にするようになった。頑張り過ぎて心身に不調をきたす人が増えているため、バランスを取ろうとする動きに結びついている。
なぜ頑張るのだろうか。
もちろん人それぞれに理由があるだろう。しかし、教育的な視点から言えば、その答えは自ずと限られてくる。
教育の目的は個の成長にある。それは二つの意味があるだろう。器を大きくすることと、器に水を湛えることだ。
器とは人格とも人間性とも言い換えられる。器の大きさを敢えて数値化するならば、300の器の人も、100の器の人もいる。もちろん、現実の幅はそれ以上に開いているだろう。
頑張る。
それは器を大きくすることよりも、日々その器にありったけの水を湛えようとすることを意味する。なみなみと水を湛えようとしなければ、器そのものは大きくならない。
自分の器が満杯になるほど心の水を注ぐ。それは心身に負担をかける。だが、注ぐべき水が干上がってしまうと、器は雨不足で枯渇したダムになる。
300の器であっても、100の器と同じ水の量になりうる。300の10%と100の30%は同じ量だ。このとき、同じ大きさの鐘が共鳴するように、それぞれの器もまた引き寄せ合う。
頑張ろうとする。
それは期待と不安の無意識の現れかもしれない。不運も幸運も発端は人間関係にある。小さい器の人間は不運を呼び、大きな器の人間は幸運を招く。だが、大きな器であっても水量が少なければ、思いがけない人間と接点を持ち、不運の洞窟へ迷い込んでしまう。
一方で、小さな器であっても懸命に水を湛えようとすれば、大きな人間と関わり、自分の器を大きくする幸運の階段を上ることができる。
頑張れ。
そのフレーズはときとして、対象を奮い立たせる都合のいい精神論として用いられてきた。パブロフの犬のような反射に使役と威圧を含ませ、悲鳴を上げる身体に鞭を打つ。
だが、その頑張りは人を摩耗させるだけで、せっかくの器が小さくなる。辛いだけの頑張りは、成長とは無縁の我慢くらべに過ぎない。
頑張るために頑張るのではない。
人を高めるのは人であり、人を低めるのも人である。好むと好まざるとにかかわらず、共鳴を繰り返しつながることが避けられないとしたら、コントロールできるのは「誰とつながりつながらないか」だけになる。
しかし、人は身近なものだけを選べる。気づけば自分を取り囲んでいるものは、自分と共鳴したものだけだ。
本当の自分というものが存在するとしたら、それは頑張ることで共鳴を重ねた未来の自分だろう。頑張るという意志は最後の決断と等しく重い。
(了)