I’m the happiest. と I’m happiest.
見慣れない文だが、いずれも「私は最も幸せだ」という意味を表す。
一方にはtheがあり、一方にはない。この二つの意味の違いを正確に答えることができたら、ある程度以上の英語力を有している証拠だ。
本来、英語の最上級にはtheをつけるが、副詞に限ってはつけなくてもよいという例外がある。しかし、実は形容詞の最上級にもtheをつけない場合がある。
theという冠詞は「特定」を表す。よって、「I’m the happiest.」とは、ある限定された人々の中で「最も幸せだ」という意味になる。ある母集団の中で、最も幸せな人が特定されている。
それでは、theがつかない「I’m happiest.」とはどんな意味になるのだろうか。
これはtheがないので他者と比較しているのではない。自分の中で最も幸せな状態を表現している。つまり、他者は不在だ。
周囲に気を取られてばかりいると足元がおろそかになり、つまずいて転びやすくなる。
確かにそれも「挫折」の一つとして自分の糧に転嫁することができる。しかし遠視的に見ると、積極的な流れから生じた挫折ではないため、どこか濁った臭いが拭いきれない。そこに教訓や戒めを見つけることは容易だが、純粋さを探すのは難しい。
挫折から純粋な糧を抽出するには、挑戦から生まれた挫折でなくてはならない。知性ある挑戦は純粋を好み、打算を拒む。
世間知に長けてくると、易きにつき、小手先の損得勘定に敏感になる。その結果、自分がどこに向かっているのかわからなくなり、そもそもなぜ歩いているのかすら忘れてしまう。
——世界とはそういうものだ。
そういう老成したような言葉でまとめるのはたやすい。しかし、それは単なる諦観に過ぎない。諦観とは濁りを甘んじてすする自分への諦めでもある。
外の世界が濁っているならば、濁りでも泳げる身体を手に入れるか、清らかな水を探すしかない。もし、後者を選ぶなら、その水は自分の器に満たさなくてはならない。それは知性ある挑戦によってなみなみと湛えられる。
純粋な水を途切れなく注ぎ足す。他人と比べた純粋さには濁りがある。自分の中の最も純度の高い湧水を、日々飲み干す。
それはtheを戴くことないpurestな水だろうか。
その自問をためらいなく繰り出し続けるためにも、知性ある挑戦を止めない。
(了)