言葉はコミュニケーションの核心である。それは言をまたない。
言葉は情報・感情・思想の三つの層によって構成されている。表層は情報、中層は感情、深層は思想である。その三つの層がミルフィーユのように重なり合っている。その厚みは人によってちがう。
三層の割合も人によってさまざまだ。表層が分厚い言葉もあれば、オブラートのように薄い表層と深層によって中層が挟まれた言葉もある。言葉を操る人の経験・感性・見識が、それぞれの層の厚みと割合を決めていく。
深層は他の二つの層に影響を与えることを忘れてはならない。深層の厚みに比例して、上の二つの層に密度が増す。深層が厚ければ厚いほど、感情と情報までも濃厚な味となり、深層が紙のように薄ければ薄いほど、食べ応えのない軽い味になってしまう。
この認識はコミュニケーションと人間関係の質を見極めるのに役立つかもしれない。情報のコミュニケーションは薄っぺらな人間関係にとどまり、感情のコミュニケーションは知的な人間関係を遠ざける。
相手との会話を通じて「気が合う」と感じる瞬間が多いのに、よくよく考えると相手の本心がわからない。そんな相談を受けることがある。情報のコミュニケーションによくある風景だ。
趣味や志向が合うために「気が合う」と感じる。互いが望む情報を交換できるのも、この関係の特徴だ。しかし、情報のコミュニケーションが続いているだけなので、相手の本心はいつまで経っても見えない。
これはHSPの人々が「孤独感」を抱く典型的なケースであるが、感情のコミュニケーションもこれと似ている。
喜怒哀楽愛憎の感情が重なることを「共感」という。共感の確率が高くなると、双方に「気が合う」という認識が芽生える。「気が合う」という感覚の蓄積は「気が合う関係」という認識に移行する。双方はこの前提のもとで関係を進めていくのだが、時間の経過とともにその前提自体を疑うようになる場合も珍しくない。なぜなら「気が合う」ことと「心が合う」ことは別のことだからだ。
実際、多くの人が「気が合う」と「心が合う」を同一視している。「気が合う」とは、趣味が合う・食べ物の好みが合う・価値観が合うなど、幾つかの「点」から導かれた印象に基づくものだ。その印象をぼんやりと駆使して、「気が合う」のだから「心が通じた」ことにして、「心が合う」のも似たようなことだからそういうことにしようと思っている。
普通の人々は人間関係とコミュニケーションを「そういうものだ」と思っている。しかし、HSPの人々はその前提に疑問を抱く。果たして本当に「そういうもの」なのだろうか、と。
HSPの人々は、その感受性の鋭敏さゆえに、「点」と「点」の間の空白に意識が向く。その空白に茫漠たる砂漠のような乾きを感じてしまう。その感受性の高さゆえに。
彼らはそれを「孤独感」と表現する。または言葉にできなくてもそれをすかさずそのように感じ取る。
やがて、「点」と「点」の空白を埋めたいという願望が日増しに強くなる。彼らの繊細な感受性はさらに高ぶり、無数の「点」が次々と生み出される。感覚が鋭敏であればあるほど、「点」の数は増える。「点」は感性のひだだからだ。繊細な感受性が生み出す無数の「点」の連続はやがて「面」となる。
それはスーラの点描画と同じかもしれない。無数の「点」が面となって絵を描く。HSPの人々は、意識的にせよ、無意識的にせよ、無数の点で絵を描く習性がある。そのことをメンターは忘れてはならない。
HSPの人々はその絵を誰かに見て欲しいと望んでいる。その絵が見える人に、それがどんな絵であるか話して欲しいと思っている。その瞬間の訪れが、「心が合っている」と感じるときであり、シンクロ・コミュニケーションが成立した瞬間だ。
しかし、メンターはそこで終わりにしてはいけない。深層の言葉によって、その絵から、さまざまなことを読み取らなければならない。本当の意味でのメンタリングは、その絵の解釈から始まることになるからだ。
(了)