「直観力」は「紳士」にたどり着く。そのような結論が導かれるとしたら意外だろうか。
イギリスの劇作家として高名なオスカーワイルドは、かつて紳士について次のような言葉を残している。
A gentleman is one who never hurts anyone's feelings unintentionally.
「紳士とは、意図せずに人の気持ちを傷つけない人である」
もしかしたら、初めてこの格言を聞いた日本人の多くは従来の紳士のイメージを反射的に呼び起こし、「やはり人の気持ちを傷つけない人が紳士なのだ」と再確認するかもしれない。日本人にとって紳士とは、「無条件で優しい人」という認識が浸透しているように思う。
しかし、前述の格言を注意深く読み返すと、「unintentionally(意図せずに)」という条件が付けられているのに気づくだろう。その反意語は「intentionally(意図的に)」である。裏返せば、紳士は「人の気持ちを意図的に傷つける」ことがあると読み取れる。むしろオスカーワイルドは、「意図的に相手の気持ちを傷つける勇敢さを持つ人間が紳士である」と伝えているように読み取れる。
勇敢さは紳士の条件である。人を傷つけないことばかり考えている人は紳士とは呼べるだろうか。それは違う。それは単に「保身」のための臆病さに過ぎない。かといって、自分の思い込みを相手に押し付けて、相手を変えようとすることに躍起になる人々も当然のごとく紳士とは言えない。それは鈍感さであって、勇敢さではない。「意図せずに人の気持ちを傷つける人」そのものだ。
「保身」とは、表面上は知性的でありながら、自己中心的であるがゆえに非知性的である。それは「非知性的知性」と呼べるかもしれない。その特徴は「直観力」の欠如である。合理性と一貫性によって最大利益を得ようとしているにもかかわらず、その保身ゆえの動きで結局は他者の信頼を損なうという直観ができない。真の「貧しさ」を直観できないのだ。
他方、真の知性とは「多様性と共存と進歩」の視点に根付くものであり、自分の身を守るために他者を利用しようとはしない。寛容性や多様性を受け入れ、他者との共存や信頼関係で繋がろうとする知性を「知性的知性」と呼びたい。見返りを求めず相手に与え、公明正大に至誠を尽くすことが、真の「豊かさ」を引き寄せると直観できる知性をいう。この知性は、倫理と言い換えてもよい。
昨今、ビジネスにおける有能なリーダーは、「倫理」を何より重視する。企業倫理の構築と周知は当然として、人生観と世界観から導かれた確固たる自分の倫理観をもって経営に臨んでいる。ハーバードビジネススクールは「倫理」を必修化していることで知られるが、行動科学や心理学の見地からも、高い倫理観が収益性を高めることが証明されている。
オスカーワイルドが定義する「紳士」の考え方はこれと似ているかもしれない。「保身」が「相手を失うことから自分を守る」ことだとすれば、「保身を手放す」とは「相手のために相手を失うことを臆さないこと」と言える。尊敬の源泉はここにある。
相手にとって必要な変化は何か。そのために、いかなる言葉をどんな方法で用いるべきなのかを直観する。それでもなお「意図的に人の気持ちを傷つける」方法しか残されていないとしたら、相手との関係性が失せる覚悟で相手の変化を促す。それが真の優しさであるという確信をもって。
相手が変われば、その人に関係する人々も変わるだろう。さらにその人々に関する人々が変わる。それは空間的に変わるだけではなく、時間を超えて続いていく。それは全て日常の物語だ。そのイメージの広さが直観力の高さに比例する。「ひとりの人間を変える」ことは「無数の人間を変える」という認識はメンターの資質と寸分違わずに重なる。
平凡な日常の時間は特別な時間のために存在するのではない。それは「貧しい」時間である。平凡で「豊かな」日常の時間を紡ぎながら、人は思慮深さと、公明正大さと、洗練と、文化を身につけていく。それは全て紳士の条件である。そうして日常から保身を手放していく。そうすることでますます時間は豊饒になる。
紳士もメンターも日常を豊饒な時間に変える。彼らが非日常的な存在であればあるほど、時間は乾く。メンターは資質が必要だが、紳士は意志に委ねられている。覚悟を決めた紳士であることは難しくても、紳士的であろうとすることはできるかもしれない。
自分が相手に向けて言葉を伝える前に、その空間的時間的広がりを直観する。自分の「紳士的な」言動が、周囲にどれほど潤いを与えるか。それをイメージすることが、「直観力」という明哲さを鍛える始まりとなる。
(了)