ネットや書籍など、巷にはたくさんの情報が溢れている。激流にたとえるより他ない量があちこちで流れている。
その視点もさまざまだ。一つのテーマについて、正反対の見解がそれなりに説得的に論じられている。一体どの意見が「正しい」のだろうか。多過ぎる選択肢は、選択肢がないに等しい。必然的に信じたい情報によりかかる。
情報リテラシーという言葉がある。情報を自分の目的に合わせて使いこなす力を指す。目的に沿った情報運用力と言い換えることができるだろう。
つまり、その目的が物事の核心を突いているかどうかは別問題ということになる。自分の考えを後押ししてくれる情報を集め、その後ろ盾を得て、突き進む。
多様な情報は、偏った考えをさらに偏らせる力を持っている。知識は体系を必要として、常にバランスを保とうとする作用が働くが、情報にその役割はない。自分にとって都合のいい情報を、自分に都合よい量だけすくいあげる。その歯止めが効かない。
人は信じたいものを信じる。偏った視点は美しさを失う。美しくない考え方は核心からずれている。数学者が美しい式を探すのも、美しくない式は反証に耐えられないためだ。核心は偏りなく物事の中心に位置している。ゆえに美しい。
「聡明」は英語でbrightという。brightには「輝く」という意味もある。
学歴の高さと聡明さに因果関係は見当たらない。相関関係さえ怪しい。聡明さには「物事の核心を突く力」があるが、それは単に優等生的な学校の勉強で身につくのではない。
どんなに情報を持っていても、知識があっても、物事の核心を突くことができなければ聡明であるとはいえない。自分の思い込みを裏付ける情報を次々と拾い集め、他人を巻き込んで進んでいく行為は、聡明さから最も離れている。
私がたびたび「聡明さ」について言及するのは、「聡明さ」への到達こそ学びの目的のひとつだからだ。それは情報の激流から身を守る手段にもなる。
物事の核心を突く。そのために知識がある。そのために考える。
核心を突くのは、核心に沿った解決策を探し、実行するためだ。そのプロセスがまた、聡明さを磨く。物事の核心を突くそのときに放たれる知性の輝きがbrightである。
もし、あなたが心のどこかで輝いていたいと願っているのなら、聡明さという内面の輝きを求めてみることを勧めたい。
(了)