私が依頼されるコーチングは、ライフコーチングであることが多い。それは一言でいえば「生き方のコーチング」であり、「人生の問題を解決するコーチング」である。ライフコーチングはアメリカでは主流のコーチングだが、日本ではまだまだ馴染みが薄い。その理由は問題解決に対するスタンスの違いに求められるだろう。
西洋の人々は言葉を何より重んじる。言葉の力で世界や人生や正義といった抽象的なテーマを分析し、自分なりの意味を与え、物事を積極的に解決しようとするが、それを習慣にする日本人は少ない。
アメリカの大学に留学中のことだった。確かliteratureの授業だったと記憶している。「あなたにとって自由とは何か?」という質問が20人ほどの学生全員に投げかけられるという場面があった。アメリカ人の学生は昼食のメニューを答えるように、自分にとっての自由を楽しそうに語っていた。
そのとき私は「Something like a balance in life(人生の天秤みたいなもの)」と答えたのを覚えている。意味ありげなことを言ったものだから、学生や教授から次々と質問が飛んで冷や汗をかいた。
最後に当てられたのは、日本人の女の子だった。彼女はしばらく黙ったあと、「I don’t know. I’ve never thought about such a thing.(わかりません。そんなこと一度も考えたことがありません)」と流暢な英語で返事をした。
学生たちや教授は驚きの表情を浮かべたあと、次々とあきれたように肩をすくめ、声にならない失笑を漏らし、私は居たたまれなくなった。自分の意見を持たない彼女の姿は、彼らにとって幼児と同じ姿に映ったのだろう。20年近く生きているにもかかわらず、「自由」について一度も真剣に考えたことがないと発言する幼児性はにわかに信じ難かったのかもしれない。
人は人生の大きなテーマを掘り下げて考えないと、目先のことで動き、狼狽し、動揺し、鬱屈する。そこに露呈する人間の「格」は、人を動かす力を持たない。
「なぜ学ばなければならないのだろうか」
その質問にためらいなく答えられる人はどれだけいるだろう。将来困らないため、いい暮らしをするため。問われた人々のほとんどは、その二つのどちらかを口ごもるように答えるかもしれない。しかし、折れそうな心を鼓舞して欲しいと願って質問してきた子どもや部下が、その答えによって前に向かって進んで行けるだろうか。
いや、答えてくれる場合はまだ救われる。自分のために思考してくれることが伝わるからだ。多くの人は思考停止したまま、沈黙を押し通したり、知らぬ存ぜぬでかわす。さらには、答えに窮する問いを持ち込み不快にさせた相手に苛立ち、責め立てることもある。
現代の多くの日本人にとって、学びとは経済的強者となるための手段である。人は生来的に自由を求めるがゆえに、経済的自由を求める。しかしそれは、人間が求める心的自由の全てを満たすことはできない。
経済的に不自由しないというそれだけで心的な自由を感じるのであれば、ひたすら経済的強者を目指せばよい。しかし、心が成熟して、人間的な格が高まるにつれ、経済的自由で心的自由を埋め合わせることはできなくなる。人格とはそういうものだからだ。
人は世界で最も不自由な存在として生まれてくる。自力で生活することはもちろん、自分の力で歩くことも食べることもできない。少しずつ成長するにつれて、自力でできるようになり、本人もそれを願う。それは自由になりたいという願望の現れに他ならない。
しかし、自力で立ったり飛び跳ねたりできるようになっても、生計を立てられるようになっても、常に何かを恐れ、不安に駆られている以上、心的自由を得ているとは言えない。さまざまな人生の問題に対する思考停止は、感覚を麻痺させることはできても、自分を自由にして人を動かす言葉を得ることはできない。
あなたが努力を天秤にかけたとき、反対側に乗せるものが常に心的自由であるならば、たとえそれがすぐに実を結ばなくても、いつかきっと人生の無知から解放された自由な自分になれるだろう。自由によって引き出される力は途方もない。