To the mentors of the future

全世代の「教育力」を高める教育コーチのブログ

リーダーの遺伝子 〜続・教育力の時代〜

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コンサルタントやコーチという職業柄、経営者や管理職といったリーダーの言動を見聞きする機会が多い。

 

 

親もまた、子どもを導く役割を担っているとすれば、家庭内におけるリーダーであるのは間違いない。

 

 

「リーダーに必要な最低条件とは何でしょうか?」

 

 

そう尋ねられたとしたら、「ロジカルで功利的な判断力」を真っ先に挙げるだろう。この普遍的な言説は、相手の年齢を問わない「共通言語」であると言ってよい。

 

 

双方が一定以上の「ロジカルで功利的な判断力」を持っていれば、お互いの話を理解できる。仮にリーダーがその力を持たない場合、どれだけ豊かな表現力や言葉を持っていたとしても、子どもや部下に対して「ふわっと」した意思を、「ふわっと」しか伝えられない。

 

 

この日本人特有の傾向である「ふわっと」は、「ロジカルで功利的な判断力」の対極に位置する。もちろんリーダーの資質には数えられない。部下や子どもは「ふわっと」伝えられた方角に向かって、曖昧な霧の中を走らされる。

 

 

曖昧な基準は行動を萎縮させる。リーダーの機嫌や思いつきによって扱いや評価が変われば、その顔色を伺うようになる。少しずつ目前の集中すべきことに没頭できなくなっていく。そうした体験の点と点がつながり、習慣という線が身体中にまとわりつく。

 

  

親や上司が何を言いたいかわからない、何を言っているかわからないというありがちな問題の芽は、「ロジカルで功利的な判断力」という土壌には育ちにくい。リーダーの論理性のおかげで、世代間の言葉の違いを乗り越えて、子どもや部下は「理解」できる。

 

 

しかし、理解は納得とは違う。「ロジカルで功利的な判断力」を持つリーダーが道を外れてしまうのは、往々にして両者を同一視する独りよがりの錯覚から始まる。

 

 

理解は納得ではない。理解させたからといって、子どもや部下が納得しているとは限らない。ロジカルに理解させるだけで相手が納得するという思い上がりが、リーダーから服を剥ぎ取る。「裸のリーダー」は両者の認識の齟齬によって生まれる。

 

 

伝え方、伝えるタイミング、言い回し、声の強弱。ロジカルで功利的な判断力では測れない「ふわっと」した感性が、ひょんな角度から納得をもたらすことがある。

 

 

「ふわっと」した人にとって、「ロジカルで合理的な判断力」を持つ人は有能に映る。憧れに近い感情を伴うこともあるかもしれない。

 

 

そんな認識の諸語や周囲の評価が、「ロジカルで功利的な判断力」を万能であると錯覚させる。仕事や家庭や子育てや人生の全てにおいて通用すると思わせてしまう。

 

 

「ロジカルで功利的な判断力」は教育力に転じにくい。その判断力が最優先するのはリーダーを含めた全体の利益であるからだ。子どもや部下は全体の利益のために存在することになる。

 

  

リーダーが子どもや部下を第一に考えるとき、「ロジカルで功利的な判断」とは別の価値観で判断を下している。

 

 

子どもや部下の嗅覚は鋭い。リーダーの承認欲求を満たす道具や、業績を上げる道具として自分を利用しようというのではないかという動機を子どもや部下が嗅ぎ取った瞬間、心的距離はたちまち開く。

 

 

彼らは目の前のリーダーから後ずさりした勢いで、「ふわっと」した感性の人の中に、自分を理解し真剣に向き合ってくれるリーダーを探すかもしれない。または「ロジカルで功利的な判断」ができるリーダーの言動の奥に、別の姿を探すかもしれない。

 

 

彼らは人徳型のリーダーを探している。そのリーダーが沈んだ日常を反転させてくれると本能的に感づいているからだ。

 

 

社会人における有能さとは、単に仕事ができるだけではない。自分ひとりだけが仕事ができる。それは一代限りに過ぎない。その人が職場を去ればそれで終わる。

 

 

しかし、真に有能なリーダーは、自分のリーダーとしての人徳の遺伝子を部下に残し、さらにその部下が同じようにその部下に残そうとする。

 

 

もちろん、部下を子どもと読み替えてもよい。

 

 

その遺伝子の広がりをイメージしながら相手と向き合い、その資質を引き出す対話の積み重ねを教育力という。

 

 

(了)