To the mentors of the future

全世代の「教育力」を高める教育コーチのブログ

ポストコロナ時代のメンター

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新型コロナウイルスのパンデミックは、第二次世界大戦と肩を並べるほどの重大な歴史的事件として世界史に刻まれるのは間違いありません。今なお、わたしたちは現在進行形で「歴史の証人」であると自覚できる時間にいます。

 

 

いずれワクチンや特効薬によって新型コロナウイルスが封じ込められる日が訪れ、認知の世界からコロナウイルスが消え去れば、コロナ前と変わらぬ街の風景はパンデミック前の日常の記憶となめらかに結びつきます。辛苦と悲痛に苦しんだ人々を除いては、思いのほか多くの人々は何もなかったように素早く日常を取り戻すでしょう。ウイルスは震災と異なり、物理的な傷跡を残さないからです。

 

 

しかし、それは認知的な錯覚です。この先「コロナ前の水準まで経済が回復しました」というニュースが流れたとしても、言語と数値で認識できない非認知的世界においてパンデミック前の姿に戻ることはないでしょう。

 

 

認知的世界の大多数はコロナ前の世界に戻ろうと躍起になっていますが、非認知的世界は逆向きのベクトルに進んでいるように思います。非認知的世界ではすでにポストコロナ時代が始まっています。

 

 

その新しい非認知の世界は、手始めに文学・音楽・絵画などのアートを通じてコロナ後の認知の世界に現れるでしょう。これまでの認知の世界で主流であった功利主義に対する巨大な力となり得る可能性を秘めています。

 

 

ポストコロナ時代は認知能力と非認知能力が逆転する時代となるでしょう。認知能力の真上に経済力を積み上げようとする教育や生活様式、さらに功利的な保身を正当化するための権威的な言い訳に疑問を抱く人々は、非認知能力の重要性に気づくようになりました。功利的保身の言動も類型化され始めています。

 

 

他罰的な思考とマウントを取る行動によって日常を組み立て、その二つを正当化するための情報を収集する。人間関係も仕事も経済力を高める道具と見立て、それを使いこなす認知能力を鍛えることを自己投資や自己研鑽と言い換える。

 

 

認知能力によって認知的な問題を解決すればするほど、非認知的な問題は深部で肥大します。認知的な問題とは異なり、非認知的な問題は経済力をもって解決できません。人間は認知と非認知の領域を揺らぎながら生きているという人生の本質を疎かにすると、どこから手をつけていいかわからない孤独感と無力感に侵食されます。

 

 

わたしたちは人に変化を働きかけようとするとき、言語や数字という認知能力に磨きをかけ、説得しようと躍起になります。しかし、共有と共感の関係と同じく、説得と納得も似て非なるものです。

 

 

人は何を言われたかは覚えていません。どんなふうに言われたかを覚えています。認知能力で相手を説得しようとしても、相手の非認知能力は認めないかもしれません。優れた非認知能力は、その言い方の中に自己保身と自己利益を見抜きます。

 

 

ポストコロナ時代は、「思いやり」や「温かさ」という非認知能力の価値が高まるでしょう。認知能力の完成形であるAIを際限なく後追いする必要があるのかどうか。認知能力と非認知能力を拮抗させるようなバランスとバランス感覚が、ポストコロナ時代を生き抜く鍵となるはずです。

 

 

「知的」の定義も変わることになるでしょう。認知的な利己主義や功利主義は知的と見なされなくなり、全体性や多様性への配慮や融和を誘発する非認知的言動に新しい「知的」の称号が与えられるかもしれません。それまで「知的」だと思ってきたものが、実はそうではない。ポストコロナ時代は、そうした価値の再評価が始まることによって、新しい道と解決すべき問題が同時発生的に起こるのではないかと思っています。

 

 

(了)