今、学術分野やビジネスの分野を中心に、ポストコロナ時代やAI時代を生きる上で必要な力が次々と提示されています。その中心に居座るのはコミュニケーション能力であるのは周知の事実。今、教育や企業も有為な人材を育成し、採用するにあたり、コミュニケーション能力に重点を置いています。
それはひとつ、「グローバル化」というワードを抜きには語れません。新型コロナパンデミックはグローバル化を後退させたという見方もありますが、一度堰を切った「コミュニケーション本流」の水流を止めるのは難しいでしょう。学生時代のみならず、社会人においても英語力が求められる一方で、今やTOEICは大学生や社会人の必修試験の様相を呈していることが、何よりの証です。
よく「英語力を高める」と表現されますが、現代においてそれは「コミュニケーション能力を高める」ことと同義です。しかし、その意識を持っている人は、外国語の能力は母国語を超えないという知見を持つ人と同じく、さほど多く存在しないという印象を受けます。
コミュニケーション能力が過小評価されているのか、それともペーパーテストの得点が人間的実力の大勢を占めていると考えているのか。いずれにしてもその二つは糾える縄のように、日本社会の中心を伝統的に貫いていると言って間違いないでしょう。
一口にコミュニケーション能力と言っても、複数の能力によって構成されています。言語的なコミュニケーションと非言語コミュニケーションに大別され、それぞれがさらに枝葉のように細分化されています。
私のコーチングの基本は「言語化」ですが、多くの人は自分の感情や考えを言語化する習慣が身についていないように思います。さまざまな角度から問いかけを試みるのですが、一つ一つの質問に首を捻りながら考え込む姿が巻き戻し再生のように繰り返されます。
「あなたが人生の目標としている言葉は何ですか」という問いかけに即答できる人は例外の範疇です。企業研修やコンサルティングにおいて、「座右の銘や好きな格言を一つ挙げてください」という質問を投げかけると、一斉に困惑した表情が並ぶのも珍しくありません。
言葉に疎いのは、日常と言葉が乖離しているためです。人は言葉によって自分の考えを整理して対象化し、自分自身と向き合います。混乱した感情や理性に秩序を与えるのは言葉であり、その秩序の中から浮かび上がるのが「本心」です。
経験上、日本人は「本心」と「本音」を混同しているように思います。そもそもが、本音と弱みを混同している傾向があり、「本音を言う」ことを「弱みを見せる」ことだと錯覚している感じを受けます。その弱みを隠そうとして威圧的な形相に頼り、またあたかもジョーカーを切り札にするように意気揚々と本音を叩きつける場合も少なくありません。
相手は言葉によって表面化した「本音」を「本心」と錯覚します。しかし、「本心」とは非言語化された感情であり、「本音」よりも深い場所に眠っています。自分自身すら存在を確認できない深部にあります。自分自身と対話する習慣があり、それでいて非言語的な方法で自分の声に耳を傾けられる人が、自分の「本心」を見つけ出します。
自分の「本心」を察知する方法を、他者に振り分けることによって、その「本心」を察知できます。対話とはそうした交感を指します。近況などの情報を交換する対話とは、その点において決定的に異なります。
有意な人材の必須条件として、これほど対話力の重要性が叫ばれているにもかかわらず、その力が育ちにくい条件が揃っています。非言語能力は言語能力と両輪の車。言語能力を鍛えなければ、非言語能力の洗練は見込めません。
教育の目的に経済的ゆとりを含めているとするならば、それはすなわち、将来リーダー立場を目指すことと同じです。職業が多様化し続けることを最大限に考慮しても、リーダー的立場と収入の正比例は構造的に変えようがありません。
対話力は現代社会におけるリーダー像を成り立たせるための必要条件です。AI時代において人材の絞り込みが始まればなおさら、AIでは対応できない対話力が求められるのは必然です。「対話力があれば十分リーダーの資質がある」という十分条件は過去の話となりつつあることを認識すべきでしょう。
もはや権威や肩書きで人がついてくる時代ではなくなりました。多くの教育現場や企業や組織において、多くの方々がそのことを痛感していることと思います。対話力によって相手が響き、それによって動く時代へとシフトしたことを刻む必要があるでしょう。下の世代のせいにして他罰的になったところで、ますます軽んじられるだけだからです。
(了)