「あなたはどんなふうになりたいですか?」
その質問に即座に答えられる人は思いのほか多くありません。しかし、
「あなたはどんなふうになりたくないですか?」
という質問に対してはすらすら言葉が口をつくのではないでしょうか。
先の読めない時代、従来の常識が通じない時代、価値観が分断された時代であればなおさらです。正反対の主張が堂々と展開されており、どちらが正しいのか判断できない。そんな経験は誰しもあることでしょう。
どうすればいいのかわからない。何を信じていいかわからない。
早く楽になりたくて、焦る。「なりたくない自分」にだけはなりたくないという気持ちが強すぎて、頑張りすぎてしまう。思い通りにいかずに、焦る。不安が募る。だから頑張る。
「なりたくない自分」というのは、周りの目が関係しています。周囲からこんなふうに思われたら恥ずかしいという目。しかし、周囲というのはいつも一方通行。本当に自分のことを考え、誠意ある言葉をかけてくれる人はどれだけいるのでしょう。
誠意のない100人の評価や評判を得るために頑張りすぎるのは、心にも体にもよくありません。他者の評価で安心感を得られるというのなら、誠意ある1人を探し出し、その人に認められることを目指した方がいいでしょう。
生きている限り、どんなことでも起こり得ます。失望を取り除こうとすればするほど、その結果から得られる失望の何倍も多くの失望を経験することになります。
日々の不安や焦りの総量を帳消しにする結果を求めて頑張りすぎる。どうにか思い通りの結果が訪れて、その瞬間の喜びの大きさから不安や焦りの日々が報われたと感じるかもしれません。
しかし、不安や焦りを動機にした生き方は、とても窮屈な世界観を作り出します。その窮屈な世界観に自分を閉じ込め、家族や友人や同僚や部下を巻き込んでしまうかもしれません。
気軽に深刻にならないことです。深刻さは不安と焦りの発電機。深刻さを笑い飛ばすことによって、ただ重いだけの不要な発電機は置いていきましょう。
あれも欲しい、これも欲しい、でも叶わなそうだ、周囲から何か言われそうだ、それはいやだ、どうしよう。自分を犠牲にして背負っていると感じていることは、自分の願望であることが多いものです。何が正しいか間違っているかわからないとしたら、「心が身軽な自分」がいる方をお勧めします。「心が身軽な自分」なると結果的に思い描いた通りになりるからです。道理のひとつですね。
(了)