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全世代の「教育力」を高める教育コーチのブログ

礼儀という盲点

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正論はいわば自分の限界とも言えるでしょう。

 

 

 

自分に関心があることだけを掘り下げるのに意識と時間の大半を費やし、他者が考えていることに想像力を巡らせなかったことで、自分自身の正論によって縛られてしまっている。ある角度からはそのように見えます。

 

 

 

自分以外の人間を「他者」とするならば、ミウチ・セケン・タニンという意識を持つ人々にとって「他者」はさらに3つに分類され、その人々が日常の登場人物として関わります。

 

 

 

自分に関心があること以外は無関心。その姿勢が生み出す想像力の欠如によって、「見えない問題」は新しい問題を生み出し始めました。「見えない問題」が「見える問題」となって表面化しても、「原因がわからない問題」として放置されるという問題です。

 

 

 

原因を探る熱意や根気がなく、問題から離れた方が楽だと判断する人が増えました。「自分に関心があること以外は無関心」という姿勢が貫かれている一方で、問題解決が経験値を高めるという見識に至っていないように思います。

 

 

 

問題に向き合わなければ経験値は高まらないという道理。挑戦は前向きな問題を作り出して経験値を高めるという手法であるように、問題とは成長に不可欠な課題です。その過程において自身の正論を見直して改めるというプロセスが成長なのですが、ミウチ・セケン・タニンのいずれにおいても少数派だと考えて臨んだ方がいいでしょう。

 

 

 

セケンとタニンから生じる問題を回避する上で最も重要なキーワードは「礼儀」です。

 

 

 

「自分に関心があること以外は無関心」な人は、自分から他人を攻撃する習慣はありません。そのため、セケンとタニンから理不尽な扱いを受けたときに「自分は何もしていない」という思いが募り、「自分は悪くない」という正論が芽生えます。

 

 

 

確かに、人を傷つけるような言動は何もせず、毎日を「真面目に」過ごしていたかもしれません。しかし、その「何もしなかった」ことに「他人の気持ちに想像力を働かせる」ことまで含まれていたとしたら、制御不能な問題が生まれやすくなります。

 

 

 

 

挨拶を例に挙げてみます。あなたが然るべき人に挨拶をしなかったとしたら、相手によってはひどく気分を害するでしょう。中にはあなたの人間性そのものを否定してくる人がいるかもしれません。あなたが「何もしなかった」ことが、セケンとタニンからの評価に大きな影響を与えています。

 

 

 

本来、人間の評価は多角的なものです。しかし、現実には人間性や能力を正当に評価できる人物はプレミアムキャラのように希少です。「自分に関心があること以外は無関心」な人を差し引いても、自分を本当に理解してくれようとしている人と生涯どれだけ出会うことができるでしょうか。

 

 

 

人はわかりやすいものを求めます。それは人間の評価についても変わりません。その人の人間性をもっともわかりやすく示すものの有無によって、相手の人間性を評価します。それはまるで偏差値で学力を測るのと同じように。

 

 

 

礼儀がそれにあたります。

 

 

 

学校や職場や地域というセケンには暗黙知として礼儀の基準があり、さらに人によって礼儀の尺度は異なります。相手が求める礼儀と実際に示される礼儀に隔たりがある場合、相手は軽んじられたと判断します。この負の感情の蓄積は問題を制御不能にさせるほど激しいものです。

 

 

 

セケンで重用される人物は、想像力を働かせて「相手の礼儀の基準」を推し量り、相手が求める礼儀を尽くすように気配りしています。自分は力があるのに正しく評価されていないと思っている人は、この盲点に陥っているように思います。

 

 

 

(了)