現代の子どもたちは、生まれたときからスケジュールに追われています。戦後の高度成長以降に都市部で育った親もそこに含まれるとすれば、幅広い世代がスケジュールとともに育ってきたと言えるでしょう。
定められたスケジュールをこなしている毎日の繰り返しは、「人生の作業化」と呼べるかもしれません。
作業には効率的な指標が必要です。マニュアルやルールがそれに当たります。短時間で効率よくタスクをこなし、作業をスケジュール通りに終わらせる。皮肉なことに、便利になればなるほど、人生は作業化の傾向を強めています。
本来は手段であるはずのスケジュールにもかかわらず、目的がはっきりしないまま、日々のスケジュールを作業のようにこなして一日が終わる。その平坦な合間に起こる喜怒哀楽を伴った出来事は、「快・不快・どちらでもない」に分けられ、「不快」の印象がついた出来事はネガティヴな体験として「思い込み」を形成します。
それはまるで意識の壁に貼り付けられた文字付きのポスターのようなものです。意識のアルバムの中に仕舞われた多くの出来事は時間とともに忘れ去れていきますが、特に印象的に残った出来事にはタイトルをつけてポスターとして保存されます。
タイトルのつけかたは人によって異なります。「嫌な経験」とか「許せない出来事」のようにネガティヴなタイトルが大半を占める人もいれば、「ためになった出来事」とか「大切なことを学んだ苦い経験」というポジティヴなタイトルを好んでつける人もいます。
自分の意識の壁に貼り続けたポスターの言葉が、その人のルールを作り上げていきます。意識の壁に貼られたポスターをことあるごとに「意識の目」で繰り返し見るために、それが自分の信念であり、譲れないものだと錯覚し始めます。
ーー「何かをしよう」とか「何かを叶えたい」という気持ちは、果たして本当の自分の気持ちなのだろうか。
ーー「~しなければならない」というルールが生み出した義務感を、自分の願望と錯覚しているだけなのではないだろうか。
ーー自分の意思で自由に判断しているように思えても、実は自分のルールによって指示されているだけかもしれない。
いわゆるメタ認知を用いている人や自分と向き合う時間を捻出している人は自律的に気づくことができますが、タスクと情報に囲まれてスケジュールに追われている現代では例外的な存在かもしれません。
手料理を全身全霊で味わうように、ひとつの出来事から生じる喜怒哀楽の感情を味わい尽くすことによって感性はみずみずしさを保ちます。感情は感性の栄養。心が老けている、心が若いと感じるのは、感情に判断を与えずにそのまま感性に流しているからです。
しかし、その感情とともに「良い・悪い」の判断を下すようになると、「思い込みのポスター」が出来上がります。喜怒哀楽の「喜」は「良い」、喜怒哀楽の「怒」は「悪い」というような単純な二分法で始まった判断は、やがて中毒性の高いネガティヴなルールとなって、その人の性格までにも影響を与えます。
「ネガティヴな思い込みのポスター」が次々と意識の内側に貼られるにつれ、落ち込む場面が増え、その度合いが大きくなります。幼児は感情を丸ごと受け止めるだけで価値判断を加えることはありませんが、それは言葉が未発達であるために価値観を言語化するという習慣がないからとも言えます。
その仕組みをプラスに活かしたのが躾です。体験と価値観を結びつけられない幼児に対して、体験と言葉を結びつけたポスターを、子どもの意識の内側に貼り付ける。それによって子どもは危険を回避する意識が芽生え、マナーや常識を獲得します。
大人が自分に課す思い込みのルールと子ども対する躾は、体験と言葉を結びつけてポスター化する点で、本質的には同じだと言えます。
(続く)