五臓六腑に染み渡るように納得する。それを「腑に落ちる」と表現するならば、それが「理解の最終形態」なのでしょうか。
近年、共感の重要性が注目されています。企業研修を行う際、わたしは共感について必ず触れるようにしています。今や共感なしにマネージメント上でも建設的な人間関係を築き上げることはできません。
共感がいかに個人や組織にとって重要であるかを理解した人々は、部下や同僚に共感しようと試みます。
しかし、共感の大切さを理解したつもりになっていると、相手には作為的な共感に映ることがあります。そのとき相手はわざとらしさやを感じたり、裏があるのではと勘繰るかもしれません。
相手に共感しようとすればするほど共感は道具性を帯びて不自然な動きとなり、図らずも腑に落ちていないことを証明する結果となってしまいます。
共感が腑に落ちた状態であれば、相手の反応は違ってきます。共感が身体に染み付いているので、相手はぎこちなさを感じたり、違和感を抱かなくなります。自分の話に心から共感してくれていると素直に感じるのです。
しかし、「腑に落ちる」ことが理解の最終形態ではありません。それよりもさらに下に落ちていくと、理解の最深部に到達します。無意識に染み渡る状態とも言えるでしょう。
相手は共感してもらったとすら思わず、共感している方も自分が共感している意識もない状態。このような「最深部に届く深い理解」は、日本で昔から伝わる無心の境地とも通じます。
目的の手段として共感を理解しようとすればするほど、本来の共感からは遠ざかります。これは達成感にも似ていて、何か達成しようとすればするほど無理してしまい、不自然な姿が前面に現れてしまうのです。
勝つことを意識しすぎて負けてしまったとか、肩に力が入り過ぎて練習どおりの力を出せなかったというアスリートのインタビュー。
その逆に、対戦相手に集中していたら優勝できたとか、無我夢中だったので勝てたというエピソード。一度は見聞きしたことがあるその話は、共感と深い理解の関係性にも当てはまります。
「共感しているように振る舞うのではなく心から共感する」という意味を深く理解した人にとって、共感は単に相手の気持ちに同調する以上の力となります。
「生産的共感」と名づけたくなるような共感です。
(了)