すこし前、子どもの不登校が増加しているという記事に目を通しました。「生きづらさの低年齢化」と呼ばれるような現象が広がっており、小学生でも同級生や教師との人間関係に悩み、生きづらさを感じる子どもが増えているとのことでした。
「生きづらさ」という言葉は昔から存在する一般語ですが、ここ10年の間に特別な意味を持って急速に浸透したように思います。それはどこか「いじめ」という言葉の広がり方に似ているようにも思います。
「生きづらさ」は「生きづらい世の中」という日常語も生み出しました。これが口癖のように使われる時代に生きているという事実の重さと向き合う必要があるのではないでしょうか。
「生きづらい」という言葉を聞き慣れたとしても、その意味の重さが変わることはありません。それは「生きていくのが大変、生きていくのがしんどい」ということであり、「希望がない、絶望」と言い換えることができます。
「生きづらい」という代名詞の世の中。子どもたちすらその言葉を共有するこの時代において、大人は「そういうものだよ」とうそぶいて見て見ぬふりをするのか、聞こえていて聞こえないふりをするのか、それとも「大人も大変なんだよ」と突き放すのか。
不誠実な人々に囲まれた大人は余裕を奪われ、自分を守ることで精一杯です。自分のことを導くことができない大人が、子どもを導くことはできません。
ほんの数十年の経験と知識からひねりだした指針で、これまでの常識が通じず先が見えない不確かな時代に生きる子どもと自分を導こうというのですから、構造的には破綻しています。
どうしていいかわからない大人は、不安を鎮めるために情報を集めます。現在の自分を肯定してくれる情報を、ネット記事や占いから集めて心を落ち着かせます。不誠実な人々が作り出した環境や言動に疲れ果てた人々は、とにかく今の自分を肯定してくれる言葉をかき集め、どうにか明日に繋げています。
明日の先に何があるのか、それもわかっていません。ただ明日があるということ、それがずっと続くだろうということ以外は。
世界が新型コロナウイルスパンデミックに見舞われ、ウクライナ危機が勃発し第三次世界大戦すら議題に上るこの現実において、「確かだと思っていたものは確かではなかった」ということだけが確かだということがわかりました。
不確かゆえに考えてもしょうがない。不確かでも何とかなるだろう。諦めと思い込みの希望的観測は、子どもを導く誠実な姿勢を崩していくことでしょう。
しかし、自分を変えるにも余裕が必要です。不誠実さに奪われた自己肯定感を埋めるために、またはそれを忘れるために、何かを借りて、または何かで気を紛らして、もしくは考えるのを止める。自分を変える余裕すら贅沢になってしまったように思います。
誠実さに囲まれる快感を知らない人々が、その代替品として冷たい正論を武器に人を次々と斬る様は、見ていて気持ちのいいものではありません。そこに子どもが含まれているとすればなおさらです。
とはいえ、残念ながら誠実さだけでは太刀打ちできない世の中になってしまいました。映画「World War Z」のごとく、「誠実さなど甘い」といわんばかりに不誠実というゾンビウイルスが蔓延しているようにも見えます。
その一方で、不誠実な人々も、誠実さという「確かなもの」を渇望してさまよっています。
多数派を占める不誠実さに同調するか、同調せずとも心身ともに振り回されるか、それとも誠実であり続けるのか。この三択が突きつけられているようにも思います。
自分と向き合い、子どもと向き合うためには、自分自身が「誠実で確かな存在」となる必要があります。
(了)